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2022年4月21日 (木)

正しい人の根は揺るがない

 箴言12:1-3には次のように記されています。
“1 訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者は間抜け者。
2 善人は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただき、悪を企む者は不義に定められる。
3 人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。”(2017)とあります。

 1節の「訓戒」と訳されている語のヘブライ語原語は、「ムーサール」で、原義は、「懲らしめ」で、叱責、小言、忠告、教訓、戒め、命令、指示、教育、規律、訓練、鍛錬、・・・等の意にも用いられます。

 1節の前半部分を、
新共同訳と聖書協会共同訳は、諭しを愛する人は知識を愛する。と訳し、
フランシスコ会訳は、教えを愛する人は知識を愛すると訳し、
口語訳は、戒めを愛する人は知識を愛すると訳しています。

 リビングバイブル訳は、人の言うことを聞く気がある人は、知識を得ることができます。と訳しています。

 ソロモンがリビングバイブル訳のような思いをもって書いたのかどうかは分かりませんが、聖書に記載されていることを鑑みると、神様からの、教え、訓戒、諭し、等と考えるのが妥当ではないかと私は思います。
KJV
訳は、命令、指示の意で訳し、NIV訳は、規律、訓練、法規の意で訳しています。
確かに、神様からのご命令や、指示、法規、規律、訓練等を聖書から学ぶと、神様がどの様なお方であるのか、という観点からの神知識を増やすことになると思います。

 1節後半部分を2017は、叱責を憎む者は間抜け者。と訳しています。
「叱責」と訳された語のヘブライ語原語は、「トーカハト」という語で、懲らしめ、せっかん、矯正、叱責、小言、等の意に用いられます。
「トーカハト」を新改訳は「叱責」、新共同訳・聖書協会共同訳・口語訳・フランシスコ会訳は、「懲らしめ」と訳しています。
「間抜け者」と訳されている語のヘブライ語原語は、「バーアル」で、焚きつける、(人が理性を欠いて)獣のような、野蛮な、愚かである、馬鹿げている、・・等の意に用いられます。
「バーアル」を、新改訳は「間抜け者」、新共同訳は「愚かだ」、聖書協会共同訳は「愚かしい」、フランシスコ会訳は「ばか者である」、文語訳は「畜(けもの)のごとし」と訳しています。

 現代人の中には、聖書の教えは古い、という人たちもいますが、主の教えを蔑(ないがし)ろにする者を、主は、けものの如し、とご覧になっているようです。

 2節には、“善人は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただき、悪を企む者は不義に定められる。”とあります。
「恵み」と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーツォーン」で、喜び、親切な行為、利益、・・等の意があります。

 前半部分を、新共同訳は、善人は主に喜び迎えられると訳し、聖書協会共同訳は善良な人は主に喜ばれる。と訳しています。

 リビングバイブル訳は、神様は正しい人を祝福し、悪人を罰します。と訳しています。

 日本の多くの人は、善良な人、正しい人というときに、対人的な観点からのみで考えるのではないかと思います。
しかし、天地万物を造られた創造者であられる神様は、対神的に正しくないと、正しい人とは決して言いません。
テレビの番組を見ていても、創造主を度外視して、人は、この様に進化してきた、等と当たり前のように言います。
よく考えてみると、それは、創造主であられる神様をひどく馬鹿にした話であり、甚だしく無礼なことです。
キリスト・イエス様を様々な宗教の教祖や神々と同列に置いたり、低くみたりすることも甚だしく無礼なことです。

 2節の後半には、「悪人を罰します」(リビングバイブル訳)とあります。
創造主であられるまことの神を、神として崇めない人、救い主・主としてイエス様を信じない人は、すべて罰せられるのですから、その人たちは、対人的に人々から善人と言われていたとしても、神様の御目には悪人なのです。

 世の裁き主は、エンマ大王ではなくキリスト・イエス様です。
ヨハネ522.27には、「22 ・・父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。27 ・・父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。」(2017)とあり、
この箇所をリビングバイブル訳は、「22父は、罪のさばきをいっさい子に任せておられます。27 ・・全人類の罪をさばく権威も下さいました。それもみな、子がメシヤ(救い主)だからです。」と記しています。
主イエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことば〔御子の言葉は御父から聞いた言葉です(筆者挿入)〕を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5242017)とも言われました。

 イエス様の弟子の中には、御父の声を聴いた人達もいました。
マタイ171-6には次のように記されています。
“1
それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2
すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3
そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4
そこでペテロがイエスに言った。
「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6
弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。2017)とあります。

 3節には、人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。”(2017)とあります。

 主を信じて、正しい人(義人)とされた人であっても、主に信頼し続けて歩まないと揺らいでしますことがあります。しかし、揺らぐのは木の幹や枝や葉のようなものであって、主キリスト・イエス様という土台に根を張った人の根は揺らぎません。主に根を張った人は、主の教えに従う人です。
 イエス様は、山上の説教の最後の部分で次のように語られました。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ724-27・新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちがあなたにあって正しく歩むことが出来るようにと、御言葉を与えてくださっておられますことを感謝します。
あなたに信頼して、御言葉に従って歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月20日 (水)

死に怯えないどころか天を待ち望むことの出来るキリスト者

 詩篇234を、
 新改訳2017は、たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。と訳し、
 フランシスコ会訳は、わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、災いを恐れない、あなたがともにおられるから。
あなたの杖、あなたの牧杖こそ、わたしを安心させる。と訳し、
 新共同訳は、死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。と訳し、
 リビングバイブル訳は、たとえ、死の暗い谷間を通ることがあっても、私は恐れません。主がすぐそばにいて、私の行く道をいつも守ってくださるからです。と意訳しています。

 「あなたのむちとあなたの杖」(新改訳)、「あなたの鞭、あなたの杖」(新共同訳)、「あなたの鞭と杖」(聖書協会共同訳)、「あなたのむちと、あなたのつえ」(口語訳)等の訳に対して、
フランシスコ会訳は、「あなたの杖、あなたの牧杖」と訳しています。

 この箇所のヘブライ語聖書は、「シェベトハー ヴェミシェネットハー」とあります。
二つの単語の最後の「ハー」は、接尾辞としてつけられた「あなたの」の意です。
「ヴェ」は、接続詞で、and の意です。
「シェベト」は、木の枝を切り離したもの、の意で、杖、こん棒、王笏、・・等の意に使われます。
「ミシェネット」は、ミシェネンという語の女性名詞で、ミシェネンは、サポート即ち支える、支援する、扶養する等の意であり、更に、プロテクター即ち防御物の意にも使われます。

 話を変えますが、ダビデは、サウルに次のように語っています。
「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。」(1サムエル1734-36抜粋・2017)と記されています。
ダビデが、この時に用いたのは、「シェベト」即ちこん棒でしょう。
「シェベト」は、敵に対するものです。

 「ミシェネット」をフランシスコ会訳は、「牧杖」と訳しています。
羊飼いが描かれている絵に、棒の先がクエスチョンマーク(?)の下の・が無いような形のものを見たことがある人もいるでしょう。牧杖というのは、先端がそのように湾曲している杖のようです。こちらは、こん棒よりも長いです。先の湾曲しているところを、おそらく子羊の首に当てて危険な場所から引っ張り出すためではないかと思います。私は当時の羊飼いを見たわけではないので、想像して書いているだけですが。

 ダビデは、「それが私の慰めです。」or「わたしを安心させる。」と続く箇所で言っているわけですから。
羊飼いの言葉や合図のみでは羊飼いに従わない羊にたいしては、羊飼いは、牧杖の真っ直ぐな方で、おしりをたたくこともあったでしょうが。それは、自分勝手な道に行ってしまうのを矯正するためですから、羊としては、やはり安心できます。

 キリスト者にあてはめて考えてみます。
フランシスコ会訳には、わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、災いを恐れない、あなたがともにおられるから。
あなたの杖、あなたの牧杖こそ、わたしを安心させる。とあります。

 イエス様の杖(王笏)は天地の主権者の王笏です。
キリスト者の敵は、悪魔の軍勢です。
ヤコブ47には、「・・、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(2017)と記され、
「栄の王にます主の」という聖歌の歌詞の中に、「愛もて主に結びつき、御言葉に堅く立ちて、悪魔に向かえば常に、勝ち得て余りあり」というものがあります。
キリスト・イエス様は、「天においても地においても、すべての権威が与えられている」お方です(マタイ28182017)。

 死の影の谷を歩む時でさえ、主イエス様が共におられるので、恐れなくてよいのです。
私は、イエス様を信じさせて頂ける以前にも、死の影を通ったことがあり、イエス様を信じさせて頂いた後にも死の影を通りました。
しかし、主の摂理により、未だ地上に置かれています。
実は、今も日々死の影を通っています。
しかし、そのことはとても安らげることです。
主に命を預けるしかないのですから。
これは地上の肉体の命のことを言っています。

 霊の命については、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)という主の御言葉が私の上に成就していますから。
あとは霊の体を与えられる時を待つのみです。
霊の体は美しく、かつ原爆や水爆も霊の体には何の影響をも与えることが出来ず、病気にもなりません。
主の現れの時、すなわち主の空中再臨の時にそれが起こります。ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちは、キリスト・イエス様の羊です。
私たち羊は、御父が主イエス様に与えた羊です。
主イエス様は、天地の主ですが、御父はだれにもまさって偉大です。
主の羊とされておりますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・
<お祈りの参考箇所>
ヨハネ102-4.14、ヨハネ177、ヨハネ1029(文語訳、塚本訳、新改訳初版~第三版、前田訳)

2022年4月19日 (火)

ヨセフをはじめ、ヤコブ一家にみる主の摂理

 ヨセフは、ヨセフにもたらされたすべての出来事の中に主の摂理を見ることができるようになっていました。
{摂理とは,万物の創造者である神の間断なき主権的活動のことであって,神は造られたすべてのものに対するいつくしみのゆえに(詩篇1459)、全被造物を保持し(ヘブル13)、すべての出来事,状況,人間と御使いの行動を統治,支配し(参照:創世記455-8)、自然界、道徳界、精神界のすべてのことを御自身の目的達成のために導きかつ用いられること(エペソ1912)を意味する。(聖書辞典)}

 創世記451-8には次のように記されています。
“1
ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。
ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
2
ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。
3
ヨセフは兄弟たちに言った。
「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」
兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。
4
ヨセフは兄弟たちに言った。
「どうか私に近寄ってください。」
彼らが近寄ると、ヨセフは言った。
「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。5 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました
6
というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。7 神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです8 ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました2017)とあります。

 ヨセフは、ヤハウェ(主)から夢を見させられ(創世記376-11)、異母兄弟たちに殺されそうになり(創世記3718-20)、かろうじて殺されることなくエジプトに奴隷として売られ(創世記3721-28,36)、更には冤罪により監獄に入れられ(創世記397-20)たのです。
その監獄に、献酌官長と料理官長が入れられてきました。そして、この二人もおそらくヤハウェ(主)からの夢を見たのでしょう。ヨセフはその夢を解き明かしました(創世記40章)。それから二年の後、ファラオがヤハウェ(主)からの夢を見ましたが、誰もその意味を解き明かすことの出来る人はいませんでした。その時、献酌官長は、ヨセフが自分と料理官長の夢を解き明かしたことを思い出したのです。それで、献酌官長は、ファラオにヨセフの話をしました。その結果、ヨセフは監獄を出され、その夢の解き明かしをすることになり、夢の解き明かしと共に対処法迄をファラオに述べたのです。それに感服したファラオは、ヨセフを宰相にしました。

 ヤハウェ(主)は、人が犯す罪をも見通し、ご自身のご計画を遂行させていかれたことをヨセフは悟ったのです。
ヤハウェ(主)なる神は罪を犯さないお方です。しかし、人が犯す罪を敢えて事前にすべて抑え込むわけではなく、それをも用いてより良きことを為されるのです。

 「如何なる折にも、愛なる神は、すべての事をば、善きにし給(たま)わん。」と笹尾牧師は聖歌に残しましたが、まさしく、ローマ828に、神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・・。(口語訳)とパウロが述べたことを、三千数百年前のヨセフは体験していたのです。

 ヨセフが見た夢(創世記375-9)には興味深い点があります。
創世記375-9には次のように記されています。
“5
さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
6
ヨセフは彼らに言った。
「私が見たこの夢について聞いてください。7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
8
兄たちは彼に言った。
「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」
彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
9
再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。
彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。2017)とあります。
 おそらく最初の夢は、「麦の束」であって、地のものです。肉は地に属します(ヤコブ315)。
次の夢は、天のものであり、地に属していません。
最初の夢の時の出来事は、創世記423-6の出来事で成就しています。
創世記426には、“ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼〔ヨセフ(筆者挿入)〕を伏し拝んだ。”(2017)と記されています。

 その後、ヨセフの兄弟たちは、悔い改めるのです。
創世記4221には、彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」2017)と記されています。
 更に、ユダの次の言葉は、主に変えられているユダを見ます。
「ですから、どうか今、このしもべ〔ユダ(筆者挿入)〕を、あの子〔ベニヤミン(筆者挿入)〕の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(創世記44332017)と記されています。

 主のみ前に悔い改めた魂は、天のものとされているのです。
ヤコブ(イスラエル)はヤボクの渡しのところでそれを体験しました(創世記3224-32)。

 私たちキリスト者も、一人一人が、主の摂理のもと、導かれてきたことを思い浮かべることができるのではないでしょうか。

<お祈り>
常に最善のことをなさってくださる天のお父様、あなたの御名をあがめて賛美します。
わたし自身を振り返っても、大いなる主の恵みを覚えます。
あなたの御手に自分自身を委ねて浮世の旅路を歩める幸いを感謝します。
イエス様の現れの時を待ち望みつつ、三一の神様に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月18日 (月)

主に仕え、主に信頼する人の幸い

 マタイ624-34には次のように記されています。
“24
だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
25
ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのち〔原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕のことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだ〔原語は「ソーマ」でbody(筆者挿入)〕のことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
26
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
27
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
28
なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30
今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
32
これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
33
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
34
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。2017)とあります。

 24節には、「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」とあります。

 「富」(2017)と訳されている語を岩波訳と前田訳は「マモン」と記しています。Strong辞書によると、強欲、貪欲の意もあるとのことです。
ギリシア語では「マムモン(マンモン)」となります。マンモンを中世では、悪魔と見なしていたようです。実際、悪魔(サタン)は、人を強欲、貪欲の思いに引き込んだり、富を得たいという思いを持っている人につけ込んで、その思いを増強させます。

 この箇所で大切なのは、誰をor何を、「主」としているのか?ということです。
「主人」と訳されている語のギリシア原語は「キュリオス」で、その意味は、(権力における)最高位の、の意で、神、主、主人等の意にも用いられます。主イエスという「主」のギリシア語は「キュリオス」です。

 現代は、お金で様々な必要な物を得ていきます。ですからお金は必要です。しかし、お金を主人として入る人は、イエス様を主とすることは出来ません。

 その逆に、まことの神を第一とし、神の約束に信頼している人は、神がその人に必要な物を与えてくださるのです。
天にあるものも地にあるものも一切は神の所有物なのですから。
申命記1014には、天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。2017)と記されています。
神の子どもは、御父から必要な物を頂けば良いのです。
自分が必要なものだと思っているのに、それを御父がくださらないときには、本当に必要なのかどうか、また、自分が主なる神を第一としているかどうかを考えてみたら良いのではないかと思います。

 何しろイエス様ご自身が、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と断言されているのですから。
「神の国」と訳されている語のギリシア語の箇所を直訳すると、「神の王国」or「神の支配」の意になります。
「義」と訳されている語のギリシア語原語は「ディカイオスネー」で、公平、公正、高潔、正義、・・等の意があります。
幸いなことにキリスト者は、神の御性質にあずかる者になるのです(2ペテロ14)。

 27節には、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」とあります。
「いのち」と訳されている語のギリシア原語は「ヘーリカ」で、(年齢や身長における)成熟、完成、・・等の意があります。
日本語訳聖書によっては、「いのち」の箇所を「身長」の意で訳しているものもあります。
「少しでも」と訳されている語のギリシア原語を直訳すると「1ペーキュス」なので、約45cmということになります。文語訳は、「身の長(たけ)一尺」と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつもあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたの御旨の内を歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月17日 (日)

命の木の実を食べる人は永遠の命を持つ

 ハレルヤ!
  イースター
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。”(1ペテロ1:3.4・2017)


 箴言1130には、“正しい人の結ぶ実はいのちの木。知恵のある者は人の心をとらえる。”(2017)と記されています。

 前半部分をヘブライ語聖書は、“ペリー(果実、果物) ツァディーク(正しい) エッツ(木) ハイ(生きている、いのちの)”と記しています。
「ツァディーク」を正しい人と訳していますが、Strong辞書は、正しい(人)としています。
それ故、敢えて、ここでは、「正しい御方の結ぶ実はいのちの木」と訳させてもらいます。

 後半部分をヘブライ語聖書は、ラカー(取る、捕える) ネフェシュ(魂、人、心、生き物) ハーカーム(賢い、思慮深い)とあります。
「ラカー」には接頭接続詞の「ヴェ」(=and、他)がついています。
また「ハーカーム」は、賢い(人)、知恵のある(人)の意があります。
( )内をお方に変えますと、「知恵のあるお方は人の心or魂を捕らえる。」と訳せます。

 地上に現れた人で、罪を犯さなかった人はイエス様だけでした。
イエス様は、イエス様を信じる人、すなわちイエス様を心に受け入れる人には、永遠のいのちを与えたのです。
「イエスは我が命」という聖歌があります。
その冒頭の歌詞は、「イエスはわが命、また喜び。すべてのすべてぞ、我にとりて・・・」とありますが、まさしくイエス様は命そのものであり、使徒ヨハネは、イエス様について「永遠のいのち」&「いのちの言葉」と表現しています(1ヨハネ11.22017)。

 ヨハネ521には、「父〔父なる神(筆者挿入)〕が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(2017)とあり、
 ヨハネ524には、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(2017)とあり、
 ヨハネ640には、「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(2017)とあり、
 ヨハネ654には、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者〔すなわち「イエス様ご自身を受け入れる者」(筆者挿入)〕は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(2017)とあり、
 ヨハネ663には、「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(聖書協会共同訳)とあり、
 1コリント1545には、聖書に「最初の人アダムは生きる者となった」と書いてありますが、最後のアダム〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は命を与える霊となりました。(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様が結んだ実は、十字架と復活をとおして人に永遠のいのちを与える実であったのです。
「そして知恵のあるお方は人の心or魂を捕らえる。」とありますが、イエス様は次から次へと滅びゆく魂を捕えたのです。

 アンデレに対しては、自分のところに来させたのです(ヨハネ135-41)。
ペテロに対しては、アンデレとは異なる方法で捕らえました(ヨハネ141.42)。
ピリポに対しては、「私に従って来なさい」と言われました(ヨハネ143)。
ナタナエルに対しては、上記の三人とはまた異なる方法で捕らえました(ヨハネ145-51)。
サマリアの女に対しては、「生ける水」、及びこの女性の素性を言い当てる、という話から、捕えました(ヨハネ47-29)。
ザアカイに対しては、ザアカイの心を捕らえる方法で捕らえました(ルカ191-10)。

そして私に対しては、私に対する方法で救ってくださいました。
イエス・キリスト様を信じれば救われるのですが、救いへと導こうとしている人を救いに至らせる過程は様々で、その人その人に応じてイエス様は対処されたのです。
一人一人のキリスト者の証しは、イエス様が一人一人をどのように導き、救いへと至らせたかの証しでもあると思います。

<お祈り>
天のお父様。  
あなたの御名を賛美します。
イエス様は、一瞬にして、相手の人の求めや必要を、見出すことが出来ました。そして、そのことに焦点を当てつつイエス様ご自身を提供していきました。
私たちは、イエス様と同じようにはいきませんが、イエス様の行い方を参考にさせていただいて、イエス様を伝えて行くことができますように。
願わくは、内におられるイエス様が、私たちの内から輝き出てくださり、私たちそれぞれに与えられた伝道対象者の方に、その方にあった方法で、イエス様を提供させて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月16日 (土)

主は神の子どもを養い、魂を生き生きとさせ、神の子どもとしてふさわしい者へと整えてくださるお方

 詩篇231-3には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
3
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。2017)とあります。

 主を羊飼いに喩え、主の民、主の者(新約的にはキリスト者)を羊に喩えています。
羊が、甚だしく自分勝手で、羊飼いに従わずに、好きな所へ行っていたら、1-3節の御言葉は、その羊の上に成就しません。

 主に従わずに、私は欠乏している、この詩篇23篇は間違っている、とは言えないのです。
この詩に出てくる羊は、主に従っている羊なので、主が導く緑の牧場、いこいのみぎわに行き、幸いを享受することができているのです。

 ダビデは詩篇23篇では上記のような内容を記していますが、ダビデが姦淫と殺人教唆の罪を犯したときには、ダビデは、憩う(いこう)ことが出来ませんでした。
その時の状態をダビデは次のように語っています。
3 私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。4 昼も夜も、御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききったからです。」(詩篇32篇・2017)と。

 3節の、「骨は疲れきり」という表現を、現代的な言い方に変えると、「体の芯から疲れ切り」or「体がだるくてたまらない」ということになります。
ダビデの場合は、強い肉体を持っていましたから、これは罪の故にメンタルから来るものによってこの様になったのです。
「骨」と訳されているヘブライ語原語は「エツェム」で、本義は「骨」ですが、体とも訳されます。

 主は、3節にあるように、私たちを、義の道に導かれるお方です。
ですから、私たちのたましいを生き生きとさせるために、罪を取り除こうとするのです。

 ダビデは、罪を告白したら疲れ、だるさから解放されたのです。
ダビデは、詩篇325に次のように記しています。
私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。
「私の背きを主に告白しよう」と。
するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。2017)とあります。

 私たちキリスト者にも次のような約束が与えられています。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ192017)と記されています。

 この聖句が有効なのは、既にイエス・キリスト様の十字架と復活があったからです。
ペテロは、1ペテロ2章に次のように記しています。
“22
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
23
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
24
そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
25
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。(新共同訳)とあります。

 魂が聖くされる、すなわち主の御旨の内を歩むことができれば、キリスト者の最低限の保証は、魂、霊の分野においてですが、「主〔ヤハウェ。新約では「キリスト・イエス」(筆者挿入)〕は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。」ということになるでしょう。

 エペソ13に、“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されているのですから。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主は、私たちを常に愛してくださり、愛をもって義の道に導こうとされていますからありがとうございます。
主の愛に応えて、いつも主を愛し、主に従うことを主は喜ばれると共に、主は、私たちの必要を、そして必要以上の恵みを与えてくださいますから、御名をあがめて感謝します。
大いなる感謝をもって、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月15日 (金)

愛する者を救うために自分を差し出すユダ/救い主としてのイエス・キリストの一つの予型

 ヤコブ(イスラエル)の11番目の息子ヨセフが17歳で兄たちによって、イシュマエル人の隊商に売られ、イシュマエル人はヨセフをエジプトに奴隷として売られ、ヨセフは侍従長に買い取られました。しかし、ある時、冤罪によって牢に入れられました。しかしヨセフは、30歳でファラオの夢を解き、その夢に基づいた対策を述べ、エジプトの宰相とされました。ヨセフは常に主と共に歩み、主は、ヨセフを環境状況をも用いながら、ヨセフを導き祝福し続けていきました。
主がファラオに夢を見せ、主がヨセフにその夢の意味を教えたとおりのことが起こりました。
ヨセフが宰相となってから7年間、エジプトの地は大豊作でした。
その間にヨセフは、穀物倉庫にたくさんの穀物を保管しました。
そして、ファラオの夢の如く、7年に及ぶ大凶作が起こったのです。

 カナンの地に住んでいたヤコブの家族もその凶作に巻き込まれていました。
ヤコブの家族も穀物に困窮しました。そこでヤコブは、ベニヤミンを除く息子たちをエジプトへ穀物を飼うために遣わしました。

 エジプトに遣わされたヤコブの息子たちは、宰相ヨセフ{エジプト名としてファラオよりツァフェナテ・パネアハorツァフェナト・パネアと名づけられた(創世記4145)}の前に出ました。その時のことが創世記42章に次のように記されています。
“6
ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。
7
ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」
8
ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。
9
かつて彼らについて見た夢〔創世記375-7参照(筆者挿入)〕を思い出して、ヨセフは言った。
「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」
10
彼らは言った。
「いいえ、ご主人様。しもべどもは食糧を買いに参りました。11 私たちはみな、一人の人の子です。私たちは正直者です。しもべどもは回し者などではございません。」
12
ヨセフは彼らに言った。
「いや、おまえたちは、この国の隙をうかがいにやって来たのだ。」
13
彼らは言った。
「しもべどもは十二人兄弟で、カナンの地にいる一人の人の子でございます。末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました。」
14
ヨセフは彼らに言った。「私が、おまえたちは回し者だと言ったのは、そのことだ。15 次のことで、おまえたちを試そう。ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちの末の弟がここに来ないかぎり、おまえたちは決してここから出ることはできない。16 おまえたちのうちの一人を送って、弟を連れて来い。それまで、おまえたちを監禁する。おまえたちに誠実さがあるかどうか、おまえたちの言ったことを試すためだ。もし誠実でなかったら、ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちは間違いなく回し者だ。」
17
こうしてヨセフは三日間、彼らを監獄に入れておいた。
18
ヨセフは三日目に彼らに言った。
「次のようにして、生き延びよ。私も神を恐れる者だから。19 もし、おまえたちが正直者なら、おまえたちの兄弟の一人を監獄に監禁したままにせよ。自分たちは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。20 そして、末の弟を私のところに連れて来るがよい。そうすれば、おまえたちのことばが本当だということが分かり、おまえたちが死ぬことはない。」
そこで彼らはそのようにした。2017)とあります。

 時がたち、ヤコブ家にはエジプトから買った食料が尽きてしまいました。
そこでヤコブは、息子たちに再度エジプトに食料を買いに行くように要求しました。その時のやり取りが創世記43章に次のように記されています。
“1
さて、その地の飢饉は激しかった。
2
彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。
「また行って、われわれのために食糧を少し買って来てくれ。」
3
すると、ユダが父に言った。
「あの方は私たちを厳しく戒めて、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言いました。4 もし弟を私たちと一緒に行かせてくださるなら、私たちは下って行って、お父さんのために食糧を買って来ましょう。
5
しかし、もし彼を行かせてくださらないなら、私たちは下って行きません。あの方は私たちに、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言ったのですから。」
6
イスラエルは言った。
「なぜ、おまえたちは、自分たちにもう一人の弟がいるとその方に言って、私を苦しめるようなことをしたのか。」
7
彼らは言った。
「あの方が私たちや家族のことについて、『おまえたちの父はまだ生きているのか。おまえたちには弟がいるのか』としきりに尋ねるので、問われるままに言ってしまったのです。『おまえたちの弟を連れて来い』と言われるとは、どうして私たちに分かったでしょうか。」
8
ユダは父イスラエルに言った。
「あの子を私と一緒に行かせてください。私たちは行きます。そうすれば私たちは、お父さんも私たちの子どもたちも、生き延びて、死なずにすむでしょう。9 私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。10 もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は、行って帰れたはずです。」
11
父イスラエルは彼らに言った。
「それなら、こうしなさい。この地の名産を袋に入れ、それを贈り物として、その方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、ピスタチオとアーモンド、12 また二倍の銀を持って行きなさい。おまえたちの袋の口に返されていた銀も、持って行って返しなさい。おそらく、あれは間違いだったのだろう。13 そして、弟を連れて、さあ、その方のところへ出かけて行きなさい。14 全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」
15
そこで、一行は贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴って出発した。2017)とあります。

 ヤコブの息子たちは末子のベニヤミンを連れてヨセフ(エジプトでの名前:ツァフェナテ・パネアハorツァフェナト・パネア)の前に立ちました。
その時のヨセフとヨセフの兄弟たちの様子、及びその後の会食の様子が、創世記43章に次のように記されています。
“15
・・・。そして〔ヨセフの兄弟たちは(筆者挿入)〕、エジプトへ下り、ヨセフの前に立った。
16
ヨセフは、ベニヤミンが彼らと一緒にいるのを見るや、彼の家を管理する者に言った。
「この人たちを家に連れて行き、家畜を屠って料理しなさい。この人たちは私と昼食をともにするから。」
17
その人は、ヨセフが言ったとおりに、一同をヨセフの家に連れて行った。
18
一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。
「われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。」
19
彼らはヨセフの家を管理するその人に近づいて、家の入り口のところで話しかけた。
20
「ご主人様、最初のとき、私たちは食糧を買いに下って参りました。21 ところが、宿泊所に着いて、袋を開けると、なんと、私たちの一人ひとりの銀がそのまま自分の袋の口にあったのです。それで、私たちはそれを返しに持って参りました。22 また、食糧を買うために、別の銀も持って参りました。だれが私たちの銀を袋の中に入れたのかは、私たちには分かりません。」
23
彼は答えた。
「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」
それから、彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。
24
その人は一同をヨセフの家に連れて行き、水を与え、彼らは足を洗った。また彼は、彼らのろばに餌を与えた。
25
兄弟たちは、ヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。自分たちがそこで食事をすることになっていると聞いたからである。
26
ヨセフが家に帰って来たとき、彼らはその家まで携えて来た贈り物を彼に差し出し、地に伏して彼を拝した〔創世記375-7参照(筆者挿入)〕。
27
ヨセフは彼らの安否を尋ねた。
「以前に話していた、おまえたちの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。」
28
彼らは答えた。
「あなた様のしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。」
そして、彼らはひざまずいて彼を拝した。
29
ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。
「これが、おまえたちが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ〔「ベニー」(筆者挿入)〕、神がおまえを恵まれるように。」
30
ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。
31
やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、
「食事を出せ」と命じた。
32
それで、ヨセフにはヨセフ用に、彼らには彼ら用に、ヨセフとともに食事をするエジプト人にはその人たち用に、それぞれ別々に食事が出された。エジプト人は、ヘブル人とはともに食事ができなかったからである。それは、エジプト人が忌み嫌うことであった。
33
彼らはヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、一同は互いに驚き合った。
34
また、ヨセフの食卓から彼らの分が与えられたが、ベニヤミンの分は、ほかの者より五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。2017)とあります。

 さて、会食も済み、食料を受け取り、代金を支払い、カナンの地に戻ろうとしたヤコブの子どもたち一行の上に何が起きたのでしょうか?
 創世記44章には次のように記されています。
“1
ヨセフは家を管理する者に命じた。
「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。2 それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」
彼はヨセフのことばどおりにした。
3
明け方、一行はろばとともに送り出された。
4
彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。
「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。5 これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」
6
彼は追いついて、このことばを彼らに告げた。2017)とあります。

 結局、冤罪によって、ヤコブの子どもたちは、ヨセフのもとへと連れて行かれました。
その時のユダの嘆願が創世記44章に次のように記されています。
“18
すると、ユダが彼〔エジプトの宰相であるヨセフ(筆者挿入)〕に近づいて言った。
「ご主人様。どうか、しもべが申し上げることに、耳をお貸しください。どうか、しもべを激しくお怒りにならないでください。あなた様はファラオのようなお方です。
19
あなた様は、以前しもべどもに、おまえたちに父や弟がいるかとお尋ねになりました。
20
それで私たちは、『私たちには、年老いた父と、年寄り子の末の弟がおります。彼の兄は死に、その母の子としては彼だけが残されましたので、父は彼を愛しています』と申し上げました。
21
するとあなた様は、『彼を私のところに連れて来い。私はこの目で彼を見たい』とおっしゃいました。
22
そのとき私たちは、『その子は父親と離れることはできません。離れたら父親は死ぬでしょう』とあなた様に申し上げました。
23
しかし、あなた様が、『末の弟が一緒に下って来なければ、二度と私の顔を見てはならない』とおっしゃったので、24 私たちは、あなた様のしもべである私の父のもとに帰ったとき、父にあなた様のおことばを伝えました。
25
そして父が、『また行って、われわれのために少し食糧を買って来てくれ』と言ったので、26 私たちは、『下って行くことはできません。もし末の弟が私たちと一緒なら、下って行きます。というのは、末の弟と一緒でなければ、あの方のお顔を見ることはできないからです』と答えました。
27
すると、あなた様のしもべ、私の父がこう申しました。『おまえたちもよく知っているように、私の妻〔ラケル{ヤコブが愛した妻}(筆者挿入)〕は二人の子〔ヨセフとベニヤミン(筆者挿入)〕を産んだ。28 一人は私のところから出て行ったきりで、きっと獣にかみ裂かれてしまったのだ、と私は言った。今に至るまで、私は彼を見ていない。29 おまえたちがこの子まで私から奪って、この子にわざわいが降りかかるなら、おまえたちは白髪頭の私を、苦しみながらよみに下らせることになる。』
30
私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。
しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。32 というのは、このしもべは父に、『もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります』と言って、あの子の保証人となっているからです。
33
ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。34 あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」2017)とあります。

 ユダは愛する者の代わりに奴隷となることを申し出たのです。
神のひとり子の御子は、愛する御父と愛する人々のために自ら十字架にかかられたのです。御子がまだ肉体をとられる以前のことをも知ることができる聖句を下記します。その聖句はヘブル(ヘブライ)105-7ですが、ここでは3-10節を下記します。
 “3 ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。
4
雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。
5
ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。
「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。6 全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした。7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」〔ヘブル105-7は、詩篇406-8の預言の成就(新改訳、口語訳)、新共同訳・聖書協会共同訳等は詩篇:407-9(筆者挿入)〕
8
以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、9 それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは愛するひとり子のみ子を、私たちを贖うために差し出してくださいました。
そのことによって、あなたが如何程に私たちを愛してくださっておられるかが分かります。
御子は、御父を愛し、私たちを愛して十字架上で贖いを成し遂げてくださいました。
ありがとうございます。
今やイエス・キリスト様の血によって、私たちはあなたのものとして聖別されておりますことを感謝します。
御父と御子を愛し、御父の子どもとして従順に歩み、また御子に愛されている者として、御子を愛する故に御子に従うという歩みをさせてください。また、それを継続させてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月14日 (木)

主により頼まず自分の富により頼む者は不幸ですが、主により頼む者は主に祝福されます。

 箴言1128には次のように記されています。
自分の富に拠り頼む者は倒れ、正しい人は若葉のように芽を出す。2017)とあります。

 28節前半部分には、自分の富に拠り頼む者は倒れる、とあります。
平和時においては、ある意味、特に、富は力です。
しかし、戦争や国家財政の破綻に伴う様々な法律改正、武力に基づく国家体制の変換、世界的な飢饉、治療法のない疫病や致死性の疾患、巨大地震、津波、・・・等、更に決定的なのは、キリストの空中再臨時と地上再臨時には、主により頼まないで、自分の富により頼んでいる者は厳しい状況に置かれるのです。更に最後の審判の時には、富により頼んで主により頼まなかった者は、罪に定められ、火の池に送られます(黙示録2011-15)。

 富があることは、悪いことではありません。その富の管理を任されているのですから。
しかし、何に信頼するか、というところが重要なのです。
富を持っていても、一瞬にしてすべてを失う場合もあります。
富(お金のみならず、土地や家や家財、その他換金すれば価値のある物)を持っていても、それらには一切信頼することなく、主なる神様のみに信頼することが大切なのです。

 イエス様は、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。/だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ621.242017)と語られました。

 1テモテ617には、この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(新共同訳)と記されています。

 またパウロは次のように証ししました。
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」(2コリント6102017)と。
パウロが、「すべてのものを持っています。」と述べたのは、パウロの内にキリストが住んでくださっておられたからです。
復活の主キリスト・イエス様は、人を生かす霊となられたお方です。
1
コリント1545には、「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダム〔復活されたキリスト・イエス(筆者挿入)〕は命を与える霊となったのです。(新共同訳)と記されています。

 イエス様を信じた人は、新生させて頂けました。
1
ペテロ13には、“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。

 キリスト・イエス様を心にお迎えした人は、永遠の命を得たのです。
使徒ヨハネは次のように記しています。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのち〔「キリスト・イエス」のこと(筆者挿入)〕を、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです1ヨハネ11-32017)とあります。

 パウロは次のように記しています。
・・、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。1コリント617・聖書協会共同訳)
主キリスト・イエス様は、回心し、キリストを受け入れた者、すなわち新生させてもらった霊の内に入ってくださったのです。
パウロの祝祷の中に、「主があなたの霊とともにいてくださいますように。・・・。」(2テモテ4222017)というものがあります。

 永遠の命を得た者は、病や死を恐れる必要がなくなりました。
イエス様は、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ1125.262017)と語られました。
この御言葉を、確信をもって信じることの出来る人は幸いです。
素晴らしい恵みを賜ったのです。

 この世の富は、何時どうなるか分かりませんが、イエス様を信じている人は大丈夫です。
「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4192017)と記されています。

 テサロニケ信徒への手紙に登場する無名の信徒たちは、キリストを信じた故に大変な苦難を味わったようです。おそらく財産も没収されたことでしょう。
 1テサロニケ1章には、
“2
わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
4
神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5
わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6
そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。(新共同訳)とあり、
 2テサロニケ1章には次のように記されています。
“3
兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。
4
それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。(新共同訳)とあります。

 テサロニケの信徒たちは、ありとあらゆる迫害と苦難の中においても、信仰、愛、希望に生きていたのです(1テサロニケ13)。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主キリスト・イエス様を信じさせて頂けたことを感謝します。
とこしえに主と共におらせて頂けますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月13日 (水)

主は私を飼うお方1

 詩篇231には、
“ダビデの詩。
主はわたしの牧者。わたしには乏しいことがない。”(フランシスコ会訳)と記されています。
 2017訳は、主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。と訳し、「私の羊飼い」の箇所について、「私の牧者」。直訳「私を飼う方と欄外注に記しています。
「主」のヘブライ語原語は「ヤハウェ」です。「ヤハウェ」は神の称号です(キリスト教辞典)。ユダヤ人は、神のお名前を直接呼ぶことを恐れた(出エジプト207)ので、「ヤハウェ」と記されている箇所を「アドーナーイ」と読み替えています。「アドーナーイ」とは、「わたしの主」の意です。

 
ダビデは、「わたしはある」(出エジプト314)と言われたお方「ヤハウェ(主)」、すなわち、永遠にして自存のお方こそ「私自身の牧者です」「私を飼うお方です」と語ることが出来ました。

 出エジプト313-15には次のように記されています。
“13
モーセは神〔原語は「エロヒーム」(筆者挿入)〕に言った。
「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
14
神はモーセに仰せられた。
「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
15
神はさらにモーセに仰せられた。
「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主〔ヘブライ語原語は「ヤハウェ」(筆者挿入)〕が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。2017)とあります。

 文語訳では、「主」は「エホバ」と表記しています。
ヘブライ語は子音字で出来ています。
母音記号のつけ方で、「主」(英字にすると“YHVWH”)は、イェホバ=エホバ、とも読めますし、ヤーウェ、ヤーヴェー、ヤハヴェ、ヤハウェとも読めます。
多くの学者が「主」を「ヤハウェ」ではないだろうか、と言うとのことなので、私はそれに倣っているだけです。天に帰ったらどのようにお呼びするのか分かるでしょう。
15
節の中に、「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた」とありますが、神であられる主がそのように語られた時、「主」{YHWVH}をどのように発音されたのでしょうね。モーセは、呼び方を聞き、当時のイスラエル人はモーセから主の名を聞いたのです。しかし、時の経過とともにわからなくなったのです。

 「羊飼い」or「牧者」と訳されているヘブライ語原語は「ラーアー」で、どちらの意もあります。

 イエス様は、
11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
14
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
27
わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。
28
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
29
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10章・2017)と語られました。

 イエスは主です。
新約聖書はギリシア語で記されているので、「主」は「キュリオス」です。
イエス様が「主」であることをイエス様が認めています。
ルカ111-2bには、さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ〔主は「キュリオス」(筆者挿入)〕。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。2017)とあります。

 詩篇23篇に戻ります。
ダビデは、
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の羊飼い〔直訳「私を飼うお方」(筆者挿入)〕。私は乏しいことがありません。2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。」(2017)と歌いました。

 2節を見ると、主は飲食を満たしてくださるお方であることが分かります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは羊のために命を捨てたお方です。
それほどまでに愛してくださっておられますことをありがとうございます。
まして、地上での生活も天上での生活もあなたは保証してくださいますから感謝します。
御父と御子の御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月12日 (火)

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 ヨセフが奴隷とされた年齢は17歳(創世記372)、監獄から出された年齢は30歳(創世記4146)でした。
ヨセフが、料理官長と献酌官長の夢を解き明かしたのは28歳の時でした(創世記405-411)。
ヨセフの奴隷時代は13年、その内監獄に何年か入れられていましたが、主はヨセフと共におられました(創世記392.323)。
主がヨセフと共にいてくださったのは、ヨセフが主に在る歩みをしたからであろうと思います(創世記522参照)。

 創世記4013-15には、ヨセフの言葉が次のように記されていました。
“13
三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。あなたは、ファラオの献酌官であったときの、以前の定めにしたがって、ファラオの杯をその手に献げるでしょう。
14
あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。
15
実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。」2017)とありました。

 しかし献酌官長はヨセフに頼まれたことを忘れてしまいました(思い出すのにふさわしい時が来るまで、主が忘れさせたのだろうと思います)。
ヨセフによる料理官長と献酌官長夢の解き明かしから2年後、今度はファラオが夢を見ました。創世記411-7には次のように記されています。
“1
それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。
2
すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。
3
するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。
4
そして、醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。
5
彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。
6
すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
7
そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を呑み込んでしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。それは夢だった。2017)とあります。

 ファラオは、自分が見た夢に落ち着くことができなくなり、国中の呪法師たちや知恵者たちを呼び集めて答えを探ろうとしましたが解決しませんでした。彼らの中の全員が、ファラオの夢の解き明かしをすることができなかったのを献酌官長が知ったときに、献酌官長はヨハネを思い出したのです。
 創世記418-13には次のように記されています。
“8
朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。
9
そのとき、献酌官長がファラオに告げた。
「私は今日、私の過ちを申し上げなければなりません。10 かつて、ファラオがしもべらに対して怒って、私と料理官長を侍従長の家に拘留されました。11 私と彼は、同じ夜に夢を見ました。それぞれ意味のある夢でした。12 そこには、私たちと一緒に、侍従長のしもべで、ヘブル人の若者がいました。私たちが彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かしてくれました。それぞれの夢に応じて、解き明かしてくれたのです。13 そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、ファラオは私を元の地位に戻され、料理官長は木につるされました。」2017)とあります。

 主の時が来て、ファラオの夢の解き明かしのために、ヨハネは地下牢から連れ出され、ファラオの前に立つことになりました。30歳の時でした。
 創世記4114-16には次のように記されています。
“14
ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。
人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。
ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。
15
ファラオはヨセフに言った。
「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」
16
ヨセフはファラオに答えた。
「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」2017)とあります。

 
ヨセフの答えを聞いたファラオは、ヨセフに、夢の内容と、夢の解き明かしの出来た者がいなかったことを話しました。
 創世記4117-24には次のように記されています。
“17
それで、ファラオはヨセフに話した。
「夢の中で、見ると、私はナイル川の岸に立っていた。
18
すると、ナイル川から、肉づきの良い、つやつやした雌牛が七頭上がって来て、葦の中で草をはんでいた。
19
すると、その後を追って、弱々しい、とても醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、上がって来た。私は、このように醜い牛をエジプト全土でまだ見たことがない。20 そして、この痩せた醜い雌牛が、先の肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。21 ところが、彼らを腹に入れても、腹に入ったのが分からないほど、その姿は初めと同じように醜かった。そのとき、私は目が覚めた。
22
また、夢の中で私は見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの穂が出て来た。
23
すると、その後を追って、貧弱で、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。24 そして、そのしなびた穂が、あの七つの良い穂を呑み込んでしまった。そこで私は呪法師たちに話したが、だれも私に説明できる者はいなかった。」2017)とあります。

 ヨセフは、夢の解き明かしと共に、これからファラオが為すべき政策についてを語りました。創世記4125-36には次のように記されています。
“25
ヨセフはファラオに言った。
「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。(神からの夢)
26
七頭の立派な雌牛は七年のことで、七つの立派な穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。
27
その後から上がって来た七頭の痩せた醜い雌牛は七年のことで、痩せ細り東風に焼けた七つの穂も同様です。それは飢饉の七年です。
28
これは、私がファラオに申し上げたとおり、神が、なさろうとしていることをファラオに示されたのです。(神は、神が気候の支配者であることを示しています)
29
今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れようとしています。
30
その後、七年間の飢饉が起こり、エジプトの地で豊作のことはすべて忘れられます。飢饉が地を荒れ果てさせ、31 この地の豊作は、後に来る飢饉のため、跡も分からなくなります。その飢饉が非常に激しいからです。
32
夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。
33
ですから、今、ファラオは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように。
34
ファラオは、国中に監督官を任命するよう、行動を起こされますように。豊作の七年間に、エジプトの地の収穫の五分の一を徴収なさるためです。
35
彼らに、これからの豊作の年のあらゆる食糧をすべて集めさせ、ファラオの権威のもとに、町々に穀物を蓄えさせるのです。彼らは保管し、36 その食糧は、エジプトの地に起こる七年の飢饉のために、国の蓄えとなります。そうすれば、この地は飢饉で滅びることがないでしょう。」2017)とあります。

 監獄に入れられていたヨセフが宰相とされた時のことが、創世記4137-46に次のように記されています。
“37
このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。
38
そこで、ファラオは家臣たちに言った。
「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」
39
ファラオはヨセフに言った。
「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。40 おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
41
ファラオはさらにヨセフに言った。
「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」
42
そこで、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
43
そして、自分の第二の車に彼を乗せた。
人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。
こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。
44
ファラオはヨセフに言った。
「私はファラオだ。しかし、おまえの許しなくしては、エジプトの国中で、だれも何もすることができない。」
45
ファラオはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えた。こうしてヨセフはエジプトの地を監督するようになった。
46
エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった。
ヨセフはファラオのもとから出発して、エジプト全土を巡った。2017)とあります。

 ヨセフを通して、主は、主と共に歩む者の幸い、環境や処遇に左右されないところの主と共なる者の歩みを見せてくださいました(創世記37.39-41章)。
それだけではなく、ユダに売られ、イスラエルの民に見捨てられ、鞭打たれ、十字架上で殺され、三日目に復活し、その後高挙され、天地の主権者に任命された主イエス・キリスト様のある程度の予型であるように思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
日々主と共に歩む歩みをし続けていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月11日 (月)

祈りについて8/試み

 マタイ613について日本語訳諸聖書は次のように訳しています。
元訳(明治14年版)は、我儕(われら)を試探(こころみ)に遇せず惡より拯出(すくいいだ)し給へ國と權(ちから)と榮(さかえ)は窮(かぎ)りなく爾(なんじ)の有(もの)なればなりアメンと訳し、
口語訳は、わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。と訳し、
塚本訳は、わたしたちを試みにあわせないで、悪から守ってください。と訳し、
新改訳(1970年版)は、私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕と訳し、
前田訳は、われらを試みにあわせず、悪者からお守りください。と訳し、
新共同訳は、わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。と訳し、
岩波訳は、そして、私たちを試みに遭わせず、私たちを悪からお救い下さいと訳し、
フランシスコ会訳は、わたしたちを誘惑に陥らないよう導き、悪からお救いくださいと訳し、
2017
訳は、私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。と訳し、
聖書協会共同訳は、私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください。と訳しています。

 「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」の祈りの聖句は後代の写本からのもである、と記されています。

 岩波訳は、冒頭に「そして」の語が入っていますが、TRギリシア語聖書には、「カイ」(そして、また、・・・等の接続詞)が入っています。

 「試みにあわせないで」という訳の箇所を、フランシスコ会訳は、「誘惑に陥らないよう導き」と訳しています。原語の意味には、試みor誘惑の、内へと運び入れずor導き入れず、等の意があります。

 後半部分の中には、「悪しき者からお救いください」、「悪からお救いください」、「悪者からお守りください」等の訳があります。
「悪しき者」、「悪」と訳されている語のギリシア語原語は「ポネーロス」で、有害な、悪、悪しき者、悪魔、悪霊、罪びとたち、・・・等の意があります。

 「お救いください」と訳されている語のギリシア語原語は「アルラ ルーオーマイ」で、「アルラ」は、否定の意(no)やそして、しかし、・・等々の意があります。
「ルーオーマイ」は、突進する、引く、引き寄せる、引き付ける、配達する、引き渡す、救い出す、救う・・・等の意があります。

 私たちはイエス様から、「私たちを試みor誘惑にあわせないで、悪{and悪魔、悪霊、悪しき人たち(含:不敬虔な者たち)}からお救いくださいorお守りください。」と祈るようにと教えられています。

 話は変わりますが、イエス様は、40日間の断食を終えて空腹であった時、悪魔(サタン)の誘惑を受けられたのです。このときは、イエス様が誘惑に会うようにと御霊が導いたのです。マタイ4章には次のように記されています。
“1
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。
悪魔に試みられるためである。
2
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
3
すると試みる者がきて言った、
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4
イエスは答えて言われた、
「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
5
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて6 言った、
「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
7
イエスは彼に言われた、
「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
8
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて9 言った、
「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
10
するとイエスは彼に言われた、
「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
11
そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。(口語訳)とあります。
イエス様は、御霊の剣すなわち神のことば(エペソ617)でサタンを撃退しました。
「神のことば」の「ことば」は「レーマ」が使われていますから、その時に、御霊が与えてくださった「神のことば」です。

 マタイ1019.20には、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(新共同訳)というイエス様の御言葉があります。

 主が、私たちに、試みを許された場合の対処方法も上記のように教えられています。

 後代の写本には、「国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」というものもある、と言われている箇所の、「だから」というギリシア語原語の「ホティ」には、それは、というのは、何故なら、だから、・・等の意があります。この「ホティ」は、ギリシア語聖書では、この上記の文の最初に出て来ます。そこを強調して訳すと、「私たちを試みor誘惑にあわせないで、悪{and悪魔、悪霊、悪しき人たち(含:不敬虔な者たち)}からお救いくださいorお守りください。というのはor何故なら、国と力と栄は、とこしえにあなたのものなのですから。アーメン。」という感じになると思います。

 「国」と訳されている語のギリシア語原語は「バシレイア」で、王国の領土、国王の支配、の意です。
主なる神様の領土は、見える世界、見えない世界のすべてです。
申命記1014には、見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。2017)と記されています。
「バシレイア」(国)には、支配、統治、の意もあります。

 「力」と訳されている語のギリシア語原語は「ドゥナミス」で、力、能力、豊かさ、・・等の意があります。

 「栄」と訳されている語のギリシア語原語は「ドクサ」で、重い、荘厳、栄光、威厳、光栄、等の意があります。

 主キリスト・イエス様は、天地の主権者です(マタイ2818)。
そして御父は、更に偉大なお方です(ヨハネ1428)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちを誘惑や試みにあわせず、悪しき者からお守りください。
もし、そのように祈っていても、あなたが、悪しき者の誘惑や攻撃を許可される場合には、イエス様のように御霊の剣、すなわち、その時々に与えられる御言葉によって勝利させて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月10日 (日)

箴言11:24.25にみる豊かになる人とは

 箴言1124.25を日本語のいくつかの聖書は次のように訳しています。
2017
訳は、“24 気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。
25
おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。2017)と訳し、

聖書協会共同訳は、“24惜しまず与えても富の増す人があり、物惜しみをしても乏しくなる者もある。
25
 祝福する魂は肥え、他者を潤す人は自分も潤う。と訳し、

フランシスコ会訳は、“24人に金をばらまいても富を増す人もいる、必要以上に節約しても貧しくなる人もいる。
25
寛大な人は満たされる。人を潤す者は自分も潤される。と訳し、

口語訳は、“24 施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。
25
物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。と訳し、

新共同訳は、“24 散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。
25
気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。と訳しています。

 24節の、「気前よく施して」(2017)、「惜しまず与え」(聖書協会共同訳)、「人に金をばらまいて」(フランシスコ会訳)、「施し散らして」(口語訳)、「散らして」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「イェシュ・パーザル」で、「パーザル」には、散らす、ばらまく、まき散らす、の意があります。「イェシュ」は、突き出る、外側に立つ、存在する、その他、be動詞、have動詞のような意、・・等もあります。

 24節の「正当な支払いを惜しんで」(2017)、「物惜しみをして」(聖書協会共同訳)、「必要以上に節約して」(フランシスコ会訳)、「与えるべきものを惜しんで」(口語訳)、「締めすぎて」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーサク ヨーシェル」で、「ハーサク」は、抑える、控える、嫌がる、許さない、「ヨーシェル」は、正当な、適切な、等の意があります。

 24節の聖句を読んだのち、新約聖書に思いをはせると、
「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」(マタイ57・口語訳)、
「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」(ガラテヤ69・口語訳)、
「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」(2コリント96-8・口語訳)等の聖句を思い浮かべます。

 25節の、「おおらかな人」(2017)、「祝福する魂」(聖書協会共同訳)、「寛大な人」(フランシスコ会訳)、「物惜しみしない者」(口語訳)、「気前のよい人」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ ベラーカー」で、「ネフェシュ」は、生き物、人、魂、・・・等の意があります。「ベラーカー」は、祝福、感謝の祈り、祝祷、贈り物として進呈する、・・・等の意があります。

 私個人としては、“24惜しまず与えても富の増す人があり、物惜しみをしても乏しくなる者もある。祝福する魂は肥え、他者を潤す人は自分も潤う。(聖書協会共同訳)という訳が気に入っています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様が、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と語られたと、パウロが言っていますが、私たちは、あなたから与えられた賜物を周りの必要としている人に与えていくことができますから感謝します。
もっていないものではなく、自分に与えられている何かを、周りの人の祝福のために与えて行くことならば何かできますから嬉しく思います。
最低限、他者のために祈り、感謝することは出来ますし、場合によっては施しをすること、知恵を提供すること、体力のある人は体力を提供することもできます。
誰でも何かを提供することが出来るようにしてくださっておられますから感謝します。
あなたの御旨に従って今日も歩むことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 9日 (土)

詩篇22篇にみるイエス・キリストの贖いの預言3

 詩篇2212-182017訳は、
“12
多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。
13
彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。
13
彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。
14
水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。
15
私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。
16
犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。
17
私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。
18
彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。と訳し、

 同じ個所を新共同訳は、13-19節に、
“13
雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。
14
餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
15
わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。
16
口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
17
犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。
18
骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め
19
わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。と訳しています。

 バシャンの地というのは、ガリラヤ湖の東方の肥沃な地域を指し、強い雄牛もいました。

 イエス様が十字架にかけられているとき、十字架上でイエス様に対して、霊的なことに対して全く無知である人々の罵詈雑言が続いたのです。
その一部がマタイ2739-44に次のように記されています。
“39
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
40
「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
42
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
44
イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。2017)とあります。
上記の文章から、当時のことを想像してみると、ここには記されていない多くの人々の罵(ののし)りや嘲(あざけ)りがあったものと思います。
当のイエス様は、その人たちの罪をも負って十字架にかかっておられるというのに。イエス様が、十字架に釘付けられる前には、イエス様はローマ兵によって骨片や金属片等のついた鞭で打たれ続け、血と肉が飛び散っていたという状態であったのですから、全身に痛みが走り続けていたことでしょう。その後、ゴルゴタへと十字架を背負わされ(途中で十字架を担ぎきれなくなったので他の人が代わりに担ぎましたが)、ゴルゴタについた後には、太い釘で手と足を打ちつけられたのです。そのようにされてから十字架を立てられたのです。衰弱しきっているからだですから、そうされたら体の重みで骨もはずれたでしょう。
イエス様は、そのような状態にされて、肉体的には弱り切った、そして、神の子としてのありようを全く捨てて、全時代かつ全世界の人々の罪を身代わりに負って、十字架上に手足を打ちつけられているのです。
罪なきお方が罪を負うのです。ですから、たった一つの罪でも重く感じられたことと思いますが、すべての人の罪を負うという、精神的にはまいり切ってしまうような状態下にイエス様は置かれたのです。
 そのイエス様に対して、大声で、罵詈雑言を叫ぶような人たちを、イエス様は、まるでバシャンの雄牛のよう、獅子のように感じられたことでしょう。

 16節には、“口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。”(新共同訳)とあります。
イエス様は、鞭で打たれた時に、かなり出血し、リンパ液も出、体液も飛び散り、痛みのために汗も出たことでしょう。更に十字架にを背負わされて歩いたときにも体液は減少していったことでしょう。更に十字架につけられ、脱水状態は進行していったのです。
 イエス様は、十字架上で、「わたしは渇く」と言われました(ヨハネ1928)が、イエス様は、肉体的には強度の脱水であったでしょうし、霊的には、永遠の過去からズ~っと御父と愛の交わりを持ち続けて来ていたのに、すべての人の罪を身代わりに負ってからは、御父と断絶した状態になったのですから、霊的にも「わたしは渇く」と述べられていたのでしょう。

 新共同訳の18.19節には、
“18
骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め
19
わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。と記されています。
 余談になりますが、人の体内水分量について、胎児は約90%、新生児は約75%、子どもは約70%、成人は約60-65%、老人は約50-55%といわれます。
イエス様の年齢は、成人に相当しますが、かなりの脱水と重力によって、肋骨などは数えることが出来るようになっていたのではないかと想像します。

 19節には、“わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。”とありますが、
ヨハネ1923.24には次のように記されています。
“23
さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。2017)とあります。

 兵士たちが旧約聖書を読んでいたとは思えません。詩篇22篇はキリストの十字架の約1000年前の預言です。

 救われる以前の私は、詩篇141に、“愚か者は心の中で「神はいない」と言う。”(2017)と記されている者に該当するような者であったのです。
ですから、私にとって、預言が次から次へと成就しているのを見せられることは、肉眼で見ることの出来ない中に、実在される何かがおられる、と考えざるを得なくなったのです。

 かつての私のように、聖書など信じられないと思う人は、「わたし〔まことの神(筆者挿入)〕は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(イザヤ4610・新共同訳)と言われた神様の御言葉が確かかどうかを調べてみたら良いと思います。
即ち、預言が歴史上実現していったのかどうかを調べるのです。
しかし、単純にイエス様を信じるという方がはるかに楽ですよ。
イエス様は言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20292017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私は大分遠回りをしてイエス様を自分の救い主として信じましたが、いずれにしてもイエス様を信じさせて頂けましたことを感謝します。
イエス様を信じさせて頂けたことによって、信じられないほど多くのかつ素晴らしいものを与えられましたことを感謝します。
御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 8日 (金)

献酌官長と料理官長の夢とヨセフ/時の支配は神様のもの

 ヨセフは17歳の時、兄たちの嫉妬と恨みのために殺されそうになりました。
長子ルベンと第4子ユダの機転によって殺されずにすみましたが、奴隷として売られ、エジプトの侍従長ポティファルの奴隷とされました。
ヨセフは、ポティファルに認められ、用いられていきましたが、ポティファルの妻の性的誘惑に晒されるようになっていきました。
ヨセフがポティファルの妻の誘惑を避けたある日のこと、ヨセフは、ポティファルの妻の策略にはまり、罪を犯してはいないのに、というか主の教えに従っていたのに、牢獄に入れられてしまいました。
ヤハウェ(主)は、ヨセフのいる場所や待遇に関係なく、ヨセフと共にいてくださいました。
そして、ヨセフが牢獄にいるとき、創世記40章に記されている出来事が起こったのです。

 創世記401-4には次のように記されています。
“1
これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。
2
ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、3 彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。
4
侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。2017)とあります。

 献酌官長と料理官長は、王から信任された人がなったはずです。
一言でいえば、王が飲食によって殺されないための毒味係でもあったからです。
私の想像ですが、王はある食事の後、体調を崩したのではないかと思います。それで毒を入れたと疑われたか、職務怠慢と思われたかで、牢獄に入れられたのではないかと思います。

 監獄の中で、献酌官長と料理官長が意味のある夢を見たこと、そしてその夢の解き明かしをヨセフが行ったことが創世記405以降に記されています。

 献酌官長の夢とその夢をヨセフが解き明かした内容が、創世記405-13に次のように記されています。
“5
さて、監獄に監禁されていた、エジプト王の献酌官と料理官は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはそれぞれ意味があった。
6
朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。
7
それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。
8
二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」
ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」
9
献酌官長はヨセフに自分の夢を話した。
「夢の中で、私の前に一本のぶどうの木があった。10 そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。11 私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」
 12 ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるとは三日のことです。13 三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。あなたは、ファラオの献酌官であったときの、以前の定めにしたがって、ファラオの杯をその手に献げるでしょう。2017)とあります。

 ヨセフの夢の解き明かしが正確であったことは、創世記4020.21に次のように記されています。
“20
三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。
21
そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。2017)とあります。

 献酌官長が見た夢をヨセフが解き明かしたのを聞いていた料理官長は、自分の見た夢をヨセフに語り、ヨセフは、その夢を解き明かしました。創世記4016-19に次のように記されています。
“16
料理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。
「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。17 一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」
18
ヨセフは答えた。
「その解き明かしはこうです。三つのかごとは三日のことです。
19
三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」2017)とあります。

 料理官長の夢に対するヨセフの解き明かしは、料理官長が処刑されてしまうというものでした。創世記4020.22に次のように記されています。
“20
三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。
22
しかし、料理官長のほうは木につるした。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりであった。2017)とあります。

 ヨセフは、献酌官長の夢を解き明かした後、献酌官長に、自分は無実の罪で監禁されている者なので、献酌官長が幸せになった折には、自分が監禁から解放されるように恵みを施してください、と頼んだのです。創世記4014.15には次のように記されています。
“14
あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。15 実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。2017)と。

 復職した献酌官長について、創世記4023は、ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。2017)と記しています。

 献酌官長がヨセフを思い出したのは、2年後のことでした。しかし、そのような背後にヤハウェ(主)の摂理があったのだろうと思います。そのことは創世記41章を読むと分かります。

 ヨセフが奴隷として売られた時は17歳でした。
そして、ある時から監獄に入れられましたが、監獄から出された時が30歳でした(創世記4146)。しかしヨセフは、自分の思いのままに生きることの出来ない自由の無い境遇の中にあっても主と共に歩んだのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
如何なる環境、状況の中に置かれても、主が共にいてくださいますから御名をあがめて感謝します。
あなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3112017
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる(ローマ828抜粋・口語訳)

2022年4月 7日 (木)

祈りについて7/赦し

 マタイ612を、
元訳は、我儕(われら)に負債(おいめ)ある者を我儕がゆるす如く我儕の負債をも免(ゆる)し給へ。と訳し、
元訳の明治14年版は、我儕(われら)に罪(つみ)を犯す者を我(わが)ゆるす如く我儕の罪をも免(ゆる)したまへと訳しています。
口語訳は、わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。と訳し、
新共同訳は、わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。と訳し、
岩波訳は、また、私たちの負債をお赦し下さい、私たちに負債ある者たちを、私たちも赦しましたように。と訳し、
フランシスコ会訳は、わたしたちの負い目をお赦しください。同じようにわたしたちに負い目のある人をわたしたちも赦します。と訳し、
2017
訳は、私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します〔別訳「赦しました」(欄外注)〕。と訳し、
聖書協会共同訳は、私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。と訳しています。
リビングバイブル訳は、私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに罪を犯す者を赦しました。と訳しています。

 ルカ114には、「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目〔「負債」(岩波訳)〕のある人を皆赦しますから。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 罪を赦す権威について、マルコ2章には次のような記事があります。
“1
数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2
それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
3
すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
4
彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた
6
ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
7
「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
8
彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
9
中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10
しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
11
「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
12
すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。2017)と記されています。

 さて、マタイ612を、岩波訳は、「また、私たちの負債をお赦し下さい、私たちに負債ある者たちを、私たちも赦しましたように。」と訳しています。
「負債」と訳されたギリシア語の原語は「オフェイレーマ」で、借金、借り、負債、(道徳的)過ち、の意です。

 一方、ルカ114には、「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目〔「負債」(岩波訳)〕のある人を皆赦しますから。」(聖書協会共同訳)と記されています。
文章前半部分の「罪」と訳されている語のギリシア語原語は「ハマルティア」、すなわち「罪」で、ここではその複数形が用いられています。sins=罪々です。
文章後半部分の「負い目」「負債」と訳されているギリシア語原語は「オフェイレーマ」です。

 負債について、イエス様は次のようなお話をなさいました。
“21
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
〔「罪を犯す」のここでのギリシア語原語は「ハマルティーノ」{動詞}です。また、ペテロはこの節で「赦す」という言葉を使っています。しかし、これは神への冒涜ではありません。何故なら少し前の18節に、「言っておきますが、あなたがたが地上で赦したり、禁じたりすることは、天でも同じようになされるのです。」{リビングバイブル}というイエス様の御言葉があるからです。(筆者挿入)〕
22
イエスは言われた。
「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
23
ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。
その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
〔「負債のある者」のギリシア語原語は「オフェイレーテス」です。(筆者挿入)〕
26
それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27
家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
〔「負債」と訳されているギリシア語原語は「ダネイオン」です。(筆者挿入)〕
28
ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29
彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
30
しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
〔「負債」と訳されているギリシア語原語は「オフェイロー」です。(筆者挿入)〕
31
彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
32
そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
〔ここで「負債」と訳されているギリシア語原語は「オフェイレー」です。(筆者挿入)〕
33
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
34
こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
〔ここで「負債」と訳されているギリシア語原語は「オフェイロー」です。(筆者挿入)〕
35
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」(マタイ18章・2017)と記されています。

 イエス様は、いわゆる「主の祈り」を教えられた後に、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(マタイ614.152017)と語られました。
 ここでイエス様が語られた対象の人は、神の子どもたちです。イエス様が、「あなたがたの天の父」と語っておられますから、ですから、救われてはいるけれども、そして御父の子どもではあるけれども、人を赦さないでいると、御父からのお仕置きがありますよ、ということです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
神の家族には、色々な人がいます。
自分とは合わないからということで、敵対してしまうことなく、愛していくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“4
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。7 すべてを耐え〔原語「ステゴー」には「おおいor屋根」の意もあります。(筆者挿入)〕、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。8 愛は決して絶えることがありません。1コリント13章・2017

2022年4月 6日 (水)

内面の美しさと外面のふさわしさ

 箴言1122
口語訳は、美しい女の慎みがないのは、金の輪の、ぶたの鼻にあるようだ。と訳し、
新共同訳は、豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている。と訳し、
フランシスコ会訳は、豚の鼻につけた金の輪のようである、美しくても、たしなみのない女は。と訳し、
リビングバイブル訳は、美人でも浅はかで慎みがない女は、金の輪が豚の鼻にかかったようなものです。と訳し、
2017
は、豚の鼻にある金の輪。美しいが、たしなみのない女。と訳し、
聖書協会共同訳は、豚の鼻に金の輪/美しいが聡明さに欠ける女。と訳しています。
(各日本語訳聖書は、発行順に記してあります。)

 2017と聖書協会共同訳は、直訳的な訳し方です。
どの訳が正しいのかというのではなく、ヘブライ語の各単語の意味のどれを選択するかで上記のような訳になります。また、ヘブライ語には名詞文というのがあるので、日本語に訳したときに、動詞を補い、またここでは文章が比喩的なので、~のよう、という語を補って訳しているようです。 

 リビングバイブル旧版は、みかけは美人でも浅はかで慎みがないのは、まるで豚がダイヤのネックレスをしているようなものです。と意訳しています。

 ヤハウェ(主)の御言葉に、「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル1672017)というものがあります。
 対神的には、「心」のありようが大切であることが分かります。
しかし、この世においては、対人的には、「見た目」も大切であることが上記の聖句から分かります。人は「うわべを見る」生き物だからです。

 「見た目」即ち、外見は、霊の体を与えられると、誰もが、極めて美しくなります。そして、それは永遠に続きます。内面の美しさは、素晴らしいものです。神の御性質に似た者とさせて頂けるからです。

 このテーマに関し、キリスト者は、この地上において、主から何を期待されているのでしょうか?

 1ペテロ33.4を、
岩波訳は、妻たる人々の装いは、・・・・、穏やかで静かな霊という不滅のものを備えた、心の〔中に〕隠れている〔奥ゆかしい〕人〔柄〕であるようにしなさい。そ〔のような霊〕こそが神の前で貴重なものなのである。3節は抜粋)と訳しています。
{〔 〕内は、訳者の挿入です。}
 このような歩みをしている人は、その人の表情や物腰に、その美しさが自然に表れてきます。それは、顔のパーツの美しさとか、体形とかとは関係のないものです。

 20174節を、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。と訳しています。

 「心の中の隠れた人」とは、「内なる人」のことでしょう。
その「内なる人」というのは、1コリント617の「主と交わる者は、主と一つの霊となる」(聖書協会共同訳)といわれている霊の人のことでしょう。

 1ペテロ33.4をリビングバイブルは、
「宝石やぜいたくな着物や、きれいな髪型で外見を美しく見せようとするよりも、むしろ、やさしく、おだやかな心の持ち主となり、いつまでも色あせしない魅力で、自分の内面を美しく飾りなさい。これこそ、神の目に価値あるものです。」と意訳しています。

 なお、この様な人は、外見にも注意すると思います。周りの人に、「自分のところには来てほしくない」という装いをすることはなく、華美ではないけれども好感を持たれる
ように調えるでしょう。隣人への愛のゆえに。

 今日の箇所は女性に対しての聖句だから、男性には関係ない、と思われる人のために、その人も、霊においてはキリストの花嫁、妻、です。
 男性用には次のような聖句が1テモテ28(抜粋)にあります。
「男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」(2017)と記されています。
また、「人潔き手を擧て怒なく疑なく何の處にても祈んことを」(元訳)とも訳せます。
私は女性だけれども、私にピッタリ、という人もいるでしょう。

 きよい心で、いつでもどこでも、心を主に向けて祈ることが出来たら良いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたが私たちを聖霊によって整えてくださり、あなたの御旨にふさわしい歩みをすることができますようお願いします。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 5日 (火)

詩篇22篇にみるイエス・キリストの贖いの預言2/全世界の全時代の人の罪を負って十字架上で罪そのものとなっているイエスの願いを却下される神

 詩篇221.2aには次のように記されていました。
1 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
2
わが神、昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。」(2017)とあります。

 1aの叫びは、イエス・キリストによる罪の贖い完了間際のイエスの言葉でした。
前にも書きましたが、午後3時頃には、十字架上の7つの言葉の内の5つが次々と語られていったのでした。再度アップすると次のようになります。
 イエス様が十字架につかれていた時間は9-15時の6時間であったのに、十字架上のイエス様の7つの言葉の内の5つの言葉は15時頃に集中していました。
3
番目は、“イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ1926.27・新共同訳)であり、
4
番目が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」{「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。」}(マタイ27462017)であり、
5
番目は、「わたしは渇く。」(ヨハネ1928・新改訳)であり、
6
番目は、「完了した。」(ヨハネ1930・新改訳)即ち、「罪の贖いが完了した。」であり、
7
番目は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23462017)でありました。

 詩篇223-11には次のように記されています。
“3
けれどもあなたは聖なる方、御座に着いておられる方、イスラエルの賛美です。
〔しかし、あなたこそ聖なる方。イスラエルの賛美の上に座する方。(聖書協会共同訳)〕
4
あなたに、私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
5
あなたに叫び、彼らは助け出されました。あなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
6
しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。
7
私を見る者はみな、私を嘲ります。口をとがらせ、頭を振ります。
8
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
9
まことに、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10
生まれる前から、私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です。
11
どうか、私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり、助ける者がいないのです。2017)とあります。

 3節には、「しかし、あなたこそ聖なる方。イスラエルの賛美の上に座する方。」(聖書協会共同訳4節)とあります。
万物を創造した万物の根源であられ、万物を超越しておられる神であられるお方が、イスラエルの賛美を受けておられる様子が記されています。
この聖なる神様は、これまで聖なる神様に信頼する人々に対して、救い(助け)を求めれば、救って来られたお方です(4.5)。

 しかし、全人類の罪を一身に受けて十字架につかれたイエスの叫びは聞かれません。罪が聖なる神と人とを断絶してしまうのです。
イザヤ591.2には次のような言葉が記されています。
「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(2017)とあります。

 イエス・キリスト様が、十字架につかれる前は、一つの罪もありませんから、神のひとり子の御子が、人の肉体(但し罪を内包していない肉体)をとって、地上生活をしておられたのです。その時、御子は、「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10302017)、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(ヨハネ14102017)と言うことができたのです。

 十字架につかれているイエス様とそれ以前のイエス様の違いを世の人々は悟ることが出来ていませんでした。
それで世の人々は、十字架上のイエス様に対して、次のような言動をとったのです。
マタイ2739-44には次のように記されています。
“39
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
40
「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
42
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
44
イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。2017)とあります。

 詩篇226-8には、預言として次のように記されています(イエス様の十字架の約1000年前の預言です)。
“6
しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑(さげす)みの的です。
7
私を見る者はみな私を嘲(あざけ)ります。口をとがらせ頭を振ります。
8
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」とあります。

 イエス・キリストは、全き神であられ、全き人になられたお方でした。
わざわざ人となられたのは、全人類の罪を贖うためであったのです(1ヨハネ22)。
すべての人の罪をその身に負って、呪われた者、即ち罰せられた者となるためでした。
そのためには肉体が必要であったのです。
ガラテヤ313には次のように記されています。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。2017)とあります。

 詩篇229-11には、
“9
まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10
生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。
11
どうか私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり助ける者がいないのです。2017)とあります。

 世の人々の罪を贖うために、肉体を与えてもらったイエス様、しかし、罪を贖う段になってもそれを理解する人はほとんどおらず、罪そのものとなっている今(十字架上におられた今)は、御父とも断絶させられていたのです。その苦しさを味わっていた時の、人としてのイエス様の内面について預言されているのだと思います。この預言は、約1000年前のものですから驚きですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたが愛してやまない御子イエス様を、私たちを救うために差し出してくださり、ありがとうございます。
イエス様、十字架上で全人類のすべての罪を身代わりに負ってくださいましたことを感謝します。
あなたが負われた罪の中には、私の過去現在未来のすべての罪も含まれていますからありがとうございます。
当のイエス様は、十字架に向かわれる前に、ゲッセマネで、苦しみもだえられるほどに祈る必要があったことを覚えます。
もしもイエス様による罪の贖いがなければ、私は最後の審判で、火の池に入れられたのです。
御名を崇め感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 4日 (月)

不可抗力的に奴隷にされたのに、ヨセフは主と共に歩んだ

 ヨセフの知らないことでしたが、ヨセフは異母兄弟たちに殺されそうになりました。
しかし幸いなことに、長兄ルベンによって殺されることだけは免れました。
 創世記3718-24には次のように記されていました。
“18
兄たちは遠くにヨセフを見て、彼が近くに来る前に、彼を殺そうと企んだ。
19
彼らは互いに話し合った。
「見ろ。あの夢見る者がやって来た。20 さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、狂暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか。」
21
しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子を打ち殺すのはやめよう」と言った。
22
また、ルベンは言った。
「弟の血を流してはいけない。弟を荒野の、この穴に投げ込みなさい。手を下してはいけない。」
これは、ヨセフを彼らの手から救い出し、父のもとに帰すためであった。
23
ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らは、ヨセフの長服、彼が着ていたあや織りの長服をはぎ取り、24 彼を捕らえて、穴の中に投げ込んだ。その穴は空で、中には水がなかった。2017)とあります。

 穴の中で、死を待つばかりとなっていたヨセフとは裏腹に、ヨセフの異母兄弟たちは食事をしていました。この時、長兄ルベンはいませんでしたが、エジプトへ行く商人たちがやって来たのです。
そこでユダは提案しました。「ヨセフを奴隷として売ろうではないか」と。
ユダもルベンと同じようにヨセフを殺すことを良しとしなかったのです。
 創世記3725-28には次のように記されています。
“25
それから、彼らは座って食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデからやって来ていた。彼らは、らくだに樹膠と乳香と没薬を背負わせて、エジプトへ下って行くところであった。
26
すると、ユダが兄弟たちに言った。
「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはいけない。あいつは、われわれの弟、われわれの肉親なのだから。」
兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
28
そのとき、ミディアン人の商人たちが通りかかった。それで兄弟たちはヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でヨセフをイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。2017)とあります。
 ミディアン人とイシュマエル人について、新共同訳スタディ版の注は、ミディアン人とイシュマエル人はどちらもアブラハムの子孫である(創世記251.2.12)。・・。ここではおそらくイシュマエル人は「隊商の人々」のことで、ミディアン人は「隊商の人々」の出身の国また部族を意味するのであろう。と述べています。

 ヨセフはエジプトに連れて行かれ奴隷として売られました。
創世記391には、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。2017)とあります。

 ヨセフの母親のラケルは、ベニヤミンの出産時に死亡しました。
それまでの間、ヨセフは母ラケルと父ヤコブにとても愛されて育てられてきたのではないかと思います。
ヤコブはラケルを愛していましたが、当時の成り行きでラケル以外の3人の女性を妻とし、3人の女性たちから10人の息子たちを得たのでした(実際には、主から与えられたのですが)。
母ラケル亡き後も父ヤコブに寵愛されて育った人、それがヨセフであったのです。
しかしヨセフは17歳の時、ポティファルの奴隷とされたのでした。
奴隷としての仕事の最初の頃は、おそらくほかの奴隷に仕事を叩きこまれていったのだろうと思います。

 聖書には記されていませんが、おそらく父ヤコブに寵愛されていたヨセフは、ヤコブからヤハウェ(主)とヤコブ(イスラエル)との関係の様々な話を聞いて育ったことと思います。それ故、ヨセフは、ヤハウェ(主)を信じて成長していったのでしょう。
ヤハウェ(主)を信じていたのに、理由もわからず、異母兄たちに暴力を振るわれ、捕まえられ、穴に投げ込まれたのです。

 穴に投げ込まれたヨセフは、兄たちに対してどのような感情を持ったことでしょうか?
聖書に記されていませんが、その時に、ヤハウェ(主)を信じて祈ったでしょうか?
もし祈ったとしたら、どうして奴隷の身分になってしまったのでしょうか?

 大抵の人は大いに絶望してしまうのが普通であろうと思います。
ヨセフは、兄弟たちに憎まれていることを知り、ヤハウェ(主)を信じていたのに見放されたのですから。
普通は、兄弟たちを恨み、ヤハウェ(主)に悪感情をいだき、ヤハウェ(主)を信じることをやめたでしょう。

 ところが、ヨセフはヤハウェ(主)を信じていたです。
もしそうでなければ、創世記392-6aに記されているようなことが起きたとは思えません。その箇所には次のように記されています。
“2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
3
彼の主人は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼とともにおられ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
4
それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
5
主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。
それで、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。6 主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。2017)とあります。

 ヨセフの体つきには男性美があり、その上イケメンでした。この家の主人ポティファルの妻は、ヨセフに興味を持ちました。そしてヨセフと姦通しようともくろんだのでした。しかし、ヨセフは、それは罪であると認識していたので、それを避けたのです。
 
創世記396b-12には次のように記されています。
“6
・・・。・・ヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。
7
これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。
8
しかし彼〔ヨセフ(筆者挿入)〕は拒んで、主人の妻に言った。
「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。9 ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」
10
彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、彼は聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、一緒にいることもしなかった。
11
このようなある日のこと、彼が仕事をしようとして家に入ると、家の中には、家の者が一人もいなかった。
12
彼女はヨセフの上着をつかんで、「一緒に寝ましょう」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、彼女から逃れて外へ出た。2017)とあります。

 サタンの執拗な誘惑の手口を見させられているような感じがします。
さて、ポティファルの妻の側に立つと、ポティファルの妻は、相当プライドを傷つけられている状態です。
夫ポティファルはファラオの侍従長という身分ですから、おそらくポティファルの妻は容姿端麗であったことでしょう。その人が拒否され続けているのです。
ポティファルの妻は怒りました。
ヨセフは、ヤハウェ(主)を信じ、ヤハウェ(主)のみ旨の内を歩んでいたのに、ポティファルの妻の策略によって、牢に入れられてしまったのです。
 創世記3912-20には次のように記されています。
“12
彼女はヨセフの上着をつかんで、「一緒に寝ましょう」と言った。
しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、彼女から逃れて外へ出た。
13
彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、14 彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。
「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げて行きました。」
16
彼女は、ヨセフの主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いておいた。
17
彼女は主人に、このように告げた。
「あなたが私たちのところに連れて来た、あのヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。18 私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げました。」
19
彼の主人は、「あなたの奴隷がこのようなことを私にしました」と告げた妻のことばを聞いて、怒りに燃えた。
20
ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。2017)とあります。

 ヨセフが体験したことを考えると、ヨセフが、「どうして、あなたを信じて、あなたの教えに従ってここまで歩んできたのに、私は誤解され、牢に入れられなければならないのですか?」とヤハウェ(主)に叫んだとしてもおかしくはありません。

 ヨセフは、主を信じていたのに、兄たちに奴隷として売られ、更にポティファルの妻の策略にはまって牢に入れられてしまったのです。
ヨセフは、信仰を捨て、ヤハウェ(主)をののしってもおかしくないような状況に置かれていたのです。
しかしヨセフは、変わることなくヤハウェ(主)を信じ、ヤハウェ(主)は、ヨセフを監獄の中で祝福しました。
 創世記3721-23には次のように記されています。
“21
しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
22
監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
23
監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼とともにおられ、彼が何をしても、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がそれを成功させてくださったからである。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちが、いかなる状況に置かれても、あなたが私たちを愛し続けてくださっておられ、私たちに対するあなたの摂理、すなわち私たちに対するあなたの御計画があることを信じて歩み続ける者であらせてください。
特にキリスト者は、天に思いをはせる特権を与えられていますから感謝します。
あなたの御名をあがめ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ828抜粋・口語訳)
「あなた方はキリストとともに復活させていただいたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロサイ31・フランシスコ会訳)
「咎の故に死んだ者であったわたしたちを、キリストとともに生かしてくださいました――あなた方が救われたのは、恵みによるのです――そして、キリスト・イエスに結ばれてともに復活させ、天の者たちの間で、キリストとともに座を占めさせてくださいました。」{エフェソ(エペソ)25.6

2022年4月 3日 (日)

祈りについて6/日ごとの糧を与えたまえ

 マタイ611を日本語訳聖書は次のように訳しています。
元訳は、我儕(われら)の日用の糧(かて)を今日も與(あたえ)たまへと訳し、
文語訳は、我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。と訳し、
口語訳は、わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。と訳し、
塚本訳は、その日の食べ物をきょうも、わたしたちに戴かせてください。と訳し、
新共同訳は、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。と訳し、
岩波訳は、私たちに必要なパンを、今日私たちにお与え下さい。と訳し、
フランシスコ会訳は、今日の糧を今日お与えください。と訳し、
2017
訳は、私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。と訳し、
聖書協会共同訳は、私たちに日ごとの糧〔別訳「必要な糧」(欄外注)〕を今日お与えください。と訳しています。

 翻訳の変遷を上記しましたが、その中で、「日用の糧」、「今日の糧」、「必要な糧」と色々な訳がありますので、ギリシア語原語を調べると、それらのどの意味も有しているのです。またそれ以外に、必要最低限の生活の糧、生存の糧、等とも訳せる単語なのです。

 「糧」と訳されている語のギリシア語原語は「アルトス」で、パン、(パンの)ローフ、焼いてから切っていない大きな一塊のパン、(肉などの)ローフ(ミートローフ)、等の意があります。

 日ごとの糧を与えてください、と祈るときの「日ごとの糧」のイメージは、人によってだいぶ異なることでしょう。

 パウロは次のように証ししています。
「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。
私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。
満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私を強くしてくださる方によって〔私的直訳「わたしを強くしてくださるキリストの中で」(筆者挿入)〕、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ411-13抜粋・2017)と。

 兎に角、生きていける食物があるのならば、主に文句を言わずに感謝することですね。
そのようにしなかった出エジプトの民の話が民数記11章に記されています。
出エジプトの民は、荒野にて、日々、油で揚げた菓子のような味の「マナ」という食物を主から与えられていたのです。
しかし、4-6節には、次のように記されています。
彼らのうちにいた雑多な群衆は激しい欲望に駆られ、イスラエルの子らもまた泣いて言った、
「誰が肉を食べさせてくれるのだろうか。エジプトではただで魚を食べていたことを思い出す。あのきゅうりも、すいかも、にらも、玉葱も、にんにくも。しかし今、わたしたちの力は尽きた。このマナのほか目の前には何もない」。(フランシスコ会訳)とあります。
 この民に対して、主は怒りました。そして次のようなことを行ったのです。31-34節には次のように記されています。
主のもとから風が起こり、海の方から鶉(うずら)を運んで来た。それらは宿営の周りに落ち、一方の側に約一日の道のり、他の側に約一日の道のりで、地の面をおよそ二アンマ〔約90cm(筆者挿入)〕の高さで覆った。民は立ち上がって終日終夜、またその翌日も一日じゅう鶉を集め、最も少なく集めた者でも十ホメル〔1ホメルは230ℓ2017参照)〕集めた。そして、宿営の周囲にそれを全部広げておいた。肉が彼らの歯の間にあってまだ咬み切られないうちに、民に向かって主の怒りが燃え、主は非常に悪い疫病をもって民を討たれた。こうして、その場所の名はキブロト・ハタアワ〔「貪欲の墓」の意(筆者挿入)〕と呼ばれた。欲望に駆られた人々をそこに埋めたからである。(フランシスコ会訳)とあります。

 主が与えてくださっておられることに感謝せず、欲望に駆られることは恐ろしいことですね。
エペソ520には、「いつも、すべてのことについて私たちの主イエス・キリストの名において〔“in the name of our Lord Jesus Christ”(KJV)〕父なる神に感謝しなさい。」(岩波訳)と記されています。

 人は、無から食物原料を作り出すことは出来ないのですが、平素、そのようなことを忘れています。

 「日ごとの糧」には、霊の糧もあります。
イエス様は、悪魔(サタン)の誘惑に対して、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる。」と語られました(マタイ44・フランシスコ会訳)。
文語訳はこの箇所を、「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」と訳しています。

 日ごとに、神様から御言葉を賜って生活していくことの大切さをも教えられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
日ごとに、霊の糧、肉体の糧を与えてくださいますから感謝します。
いつもすべてのことについて、あなたに感謝することを忘れることがありませんよう整えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 2日 (土)

真に正しい人は命に至る

 箴言1119
フランシスコ会訳は、真に正しい人は命に至り、悪を追い求める者は死に至る。と訳し、
2017
は、実に、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。と訳し、
新共同訳は、慈善は命への確かな道。悪を追及する者は死に至る。と訳しています。

 この聖句を「主にあって」と「主抜きで、人間として」の両面から考えてみたいと思います。

 人は、主を知らずに誕生しました。
ですから主を知らない人は、善いことを行う、悪いことを行う、といっても、それは神である主とは関係なく考えて行動しているのです。

 人道主義(ヒューマニズム)は良いものである、と考えている日本人は多いと思います。
精選版日本国語大辞典の「人道主義」の項によると、人間の尊厳を至上のものとし、人間愛に基づいて、人種、民族、国籍の別にかかわりなく、人類の福祉を増進することをめざす立場。と記されています。

 この立場に立つ人が、「義を追い求める」としたら、人間の尊厳を至上のものとし、人間愛に基づいて、人種、民族、国籍の別にかかわりなく、人類の福祉を増進することをめざす行動に励むことでしょう。

 これはとても良いことのように思えますが、聖書の啓示によると、最も根本のところで、間違っているのです。それは、「人間の尊厳を至上のものとし」というところです。

 ヒューマニズムの人が、天国や地獄はあるかないかわからないけれども、あることを想定して、善に励みましょうと思い、善に励んだとしても、天国に行くことは出来ません。それは、人間の尊厳を至上のものとしているからです。
ヒューマニズムは、人間の尊厳を偶像としているのです。

 至上なるお方は、万物の創造者であられるまことの神です。
それ故、十戒の第一、二戒には次のように記されているのです。
“1
それから神は次のすべてのことばを告げられた。
2
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。
3
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない
4
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
5
それら〔偶像(筆者挿入)〕を拝んではならないそれらに仕えてはならない。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。2017)とあります。

 ところが、悲しいことにアダムの堕罪により、アダムの子孫である人々(地球人)は、生まれたときから、自分の背き〔神である主に対する背き(筆者挿入)〕と罪の中に死んでいた者〔神に対して死んでいた即ち断絶していた者(筆者挿入)〕であり、罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔{サタン}(筆者挿入)〕、すなわち、不従順〔神である主に対する不従順(筆者挿入)〕の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでい(エペソ21.2抜粋・2017)た者であったのです。

 天国に入ろうとして、一生懸命自分が思うところの善行に励んでいるものの、イエス・キリストを信じないことが罪であることを受け入れることができないで、イエス・キリストを拒否する人はかなり多いのではないかと思います。
ヨハネ169には、「罪とは、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じないことです。」(リビングバイブル)ということを悟ることが出来ないのです。

 まとめると、キリストを信じない人の善行は、「実に、義を追い求めているのに、永遠のいのちには至らず、まことの神を信じないという悪に立ち続けるために死に至る。」という状態になってしまうのです。

 次にキリスト者の場合を考えてみます。
キリスト者は、ある時、自分の罪を認識し、それを認め、自分の罪の赦しのためにイエス・キリストを信じた人です。
 ローマ324には次のように記されています。各日本語訳聖書の翻訳を比べてみます。
元訳は、只キリスト・イエスの贖に頼て神の恩をうけ功なくて義とせらるる也と訳し、
文語訳は、功なくして神の恩惠により、キリスト・イエスにある贖罪によりて義とせらるるなり。と訳し、
口語訳は、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。と訳し、
塚本訳は、(さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(道が設けられた)のである。{( )内は訳者挿入}と訳し、
新共同訳は、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。と訳し、
岩波訳は、彼らは神の恵みにより、キリスト・イェスにおける贖いをとおして、無償で義とされているのである。と訳し、
フランシスコ会訳は、キリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。と訳し、
2017
訳は、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。と訳し、
聖書協会共同訳は、キリスト・イエスによる贖いの業(わざ)を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。と訳しています。

 パウロは、ピシディアのアンティオキアの会堂で、会堂司(つかさ)たちに、奨励の言葉があれば話すように、と言われ、使徒1316-41に記されている内容を語りました。その中の38.39節には、「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」(2017)と語ったのです。

 キリスト・イエスによる贖いの業のゆえに、キリスト・イエスを信じる者は、誰でも義とされ、永遠のいのちを与えられるのです。
箴言1119真に正しい人は命に至り(フランシスコ会訳)ということは、キリスト・イエスを信じた結果です。
正しい人とは、キリスト・イエスを信じた人のことです。
1
コリント130には、・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。2017)と記されています。

 キリスト者となった人は、キリストを信じて救われたのですが、キリスト者の中には、いつの間にか、善いことを行わないと救われていないのではないだろうか、と考え、信仰義認から外れていく人がいるのです。

 救われるための方法は、キリストを信じることです。
信じた後の善き行いは、救いと関係するのではなく、キリストの御座におけるキリスト者の裁き(報酬)と関係するのです(2コリント510)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様の贖いを感謝します。
聖霊様の導きを感謝します。
三位一体の神様の御愛のゆえに私は救われました。
また義とされ、永遠のいのちも与えられ、花婿イエス様の現れを待つ身とされておりますことを感謝します。
御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 1日 (金)

詩篇22篇にみるイエス・キリストの贖いの預言1

 詩篇221.2を、新改訳2017は次のように記しています(新共同訳は2.3節になります)。
1 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。
私を救わず、遠く離れておられるのですか。
私のうめきのことばにもかかわらず。
 2 わが神、昼に私はあなたを呼びます。しかし、あなたは答えてくださいません。
夜にも私は黙っていられません。」(2017)と記されています。

 詩篇22篇はダビデが記した詩篇、と記されていますが、ダビデの生涯の出来事を読むと、ダビデは、実際にこのようなことを体験したのではないかと思います。

 このような叫び、呻きは、神の子どもであるキリスト者においても、同じ様なところを通させられる場合があります。

 キリスト者の場合は、神の約束の御言葉を心に蓄え、信仰から信仰へと成長させていただくと、神であられる主が祈りに応えてくださらない場合があったとしても、神に捨てられているのではないと、置かれている状況よりも神の約束の御言葉に信頼して、歩むことができます。

 ダビデがサウルに追われていたときには、この様な状況(詩篇221.2のような状況)に何回か陥ったことと思います。
1
サムエル20章のダビデとヨナタンの会話もそれを証ししています。
1
サムエル201-3には次のように記されています。
“1
ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。
「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」
2
ヨナタンは彼に言った。
「とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は、事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」
3
ダビデはなおも誓って言った。「父上は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます〔「主とヨナタンに誓って言いますが」の意(筆者挿入)〕。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」2017)とあります。

 ダビデのこのような心境のとき、ダビデは、ヤハウェ(主)に見放されたのではないかという思いを多少持ったのではないかと思います。

 しかし、イエス様の場合は、御父から100%断絶させられたのです。
マタイ2745.46には次のように記されています。
“45
さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
46
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。2017)とあります。

 イエス様は、午前9時に十字架につけられましたが、すべての人の罪をその身に負って、神からの裁きを受けた(御父と断絶させられた)のが、午後12時から3時の間であったのです。
すべての人の罪を負って、ということに関して、1ヨハネ22には次のように記されています。
この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。2017)とあります。

 イエス・キリスト様は、私たちの罪だけではなく、世全体の罪のための宥めのささげ物となってくださいましたが、イエス・キリスト様のなされたことが、「私の罪のためであった」と悟り、自らの救いのためにイエス・キリスト様を信じた者だけが救われるのです。

 エペソ28には、“この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。”(2017)と記されているとおりです。

 ダビデの体験したことは、人間としては極めて辛いことでしたが、イエス様が体験したことに比べると、比べようもない程に小さいことでした。しかし、ダビデが体験して祈った言葉は、イエス・キリスト様の贖いの預言でもあったのです。

 イエス様は十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ27462017)と大声で叫ばれました。
この意味は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味ですが、同じ意味で、ダビデは、「エリ〔わが神(筆者挿入)〕、エリ、レマー〔何のために。「マー」は何故、どうして、の意。(筆者挿入)〕、アーザブトニー〔「アーザブ」は、見放す、見捨てる、の意です。(筆者挿入)〕と叫んでいます。
 マタイ2746の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」に関して、新共同訳スタディ版の注は、詩篇222に由来する。ここでは当時のパレスチナや中近東でユダヤ人や他の人々が話していた言葉、アラム語で引用されている。「エリ」はヘブライ語、「レマ、サバクタニ」はユダヤ人や他の中近東の人々が話していたアラム語。と述べています。
イエス様の時代とダビデの時代の間には、約1000年の期間がありました。

 今日の箇所の、
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。
私を救わず、遠く離れておられるのですか。
私のうめきのことばにもかかわらず。
わが神、昼に私はあなたを呼びます。しかし、あなたは答えてくださいません。」
というのは、イエス・キリストにおいて成就した神の裁きに対する叫びであったのです。

 「罪の報酬は死です。」(2017)、「罪が支払う報酬は死です。」(新共同訳)、「罪の報いは死であり」(岩波訳)とローマ623に記されています。

 ローマ81-11を岩波訳は次のように訳しています。
“1
それゆえに、キリスト・イエスのうちにある者たちにとっては、今や〔神による(訳者挿入)〕断罪はない。
2
なぜならば、キリスト・イエスにおける生命の霊の法則は、あなたを罪と死との法則から自由にしたからである。
3
事実、律法が肉のゆえに弱くなり為し得なかったこと、〔それを神は成し遂げて下さった。すなわち(訳者挿入)〕神は、自らの子を、罪の肉と似通ったかたちをとって、また罪のために、遣わし、その肉において罪を断罪されたのである。
4
それは、律法の義なる定めが、肉に従ってではなく霊に従って歩んでいる私たちにおいて、満たされるためである。
5
肉に従って存在する者たちは、肉のことがらを思い、霊に従って存在する者たちは、霊のことがらを思う。
6
肉の思いは死である〔肉を追い求めることは死をもたらす(塚本訳)〕が、霊の思いは生命と平和である。
7
肉の思いは神への敵意であり、実際それは、神の律法に従わないし、そもそも従うことができもしないからである。
8
肉において存在している者たちは、神に喜ばれることができない。
9
もしも神の霊があなたがたのうちに住んでいるのなら、あなたがたは肉のうちにではなく、霊のうちにいる。もしも誰かがキリストの霊をもたないのなら、その人はキリストのものではない。
10
しかし、もしもキリストがあなたがたのうちにおられる〔1コリント617(筆者挿入)〕なら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生命〔そのもの(訳者挿入)〕である。
11
もしもイエスを死者たち〔の中(訳者挿入)〕から起こした方の霊があなたがたのうちに住んでいるのなら、 キリストを死者たち〔の中(訳者挿入)〕から起こした方は、あなたがたのうちに住んでいるその方の霊のゆえに、あなたがたの死ぬべきからだをも、
生かして下さるであろう。とあります。

 イエス様が十字架につかれていた時間は9-15時の6時間であったのに、十字架上のイエス様の7つの御言葉の内の5つの御言葉は3時頃に集中していました。
3
番目は、“イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ1926.27・新共同訳)であり、
4
番目が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ27462017)であり、
5
番目は、「わたしは渇く。」(ヨハネ1928・新改訳)であり、
6
番目は、「完了した。」(ヨハネ1930・新改訳)即ち、「罪の贖いが完了した。」であり、
7
番目は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23462017)でありました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御愛と、私たちの救い主にして主であるイエス様の贖いを感謝します。
私たちが、イエス・キリスト様を主と呼ぶことが出来るように導いてくださった聖霊様に感謝します。
三一の神様の御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月31日 (木)

ひいきされている人は妬まれる

 ヤコブには4人の妻がいました。
レアとレアの女奴隷ジルパ、ラケルとラケルの女奴隷ビルハです。

 ヨセフの兄は10人いました。聖書に記されている姉は1人で、弟は1人です。
創世記372b.cには、ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。2017)と記されています。

 ビルハの子は、ダンとナフタリです。
ジルパの子は、ガドとアシェルです。
ヨセフは4人の兄たちの羊飼いの手伝いとして働いていたようです。

 ヨセフは、ことのほか父ヤコブに愛されていました。
創世記373には、“イスラエル〔「ヤコブ」とも言う(筆者挿入)〕は、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。”(2017)と記されています。

 ヨセフは、兄たちの悪いうわさを父ヤコブに告げていました(創世記374)。
聖書には、ヨセフの告げ口が他の兄弟たちに知られていた、とは記されていませんが、おそらく知られていたことだろうと思います。

 ヨセフに対する父ヤコブの偏愛は、ヨセフにとって、父との関係では良くても、兄弟たちとの関係では良いものではありませんでした。
このようなことは集団の中ではよく起こることです。
創世記374には、“ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。”(2017)と記されています。

 4節には、父の偏愛のゆえにヨセフは、他の兄弟たちから憎まれた、と記されています。

 ヨセフは、父の偏愛だけではなく、ヤコブ家の中で高くあげられる、という夢を与えられたのです。
そして、17歳のヨセフは、わきまえもなく、その夢をみなに告げたのです。
ヨセフは、その夢を告げたことによって、ますます憎まれるようになりました。

 夢の内容と、更に憎まれるようになった状況について創世記375-11に次のように記されています。
“5
さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
6
ヨセフは彼らに言った。
「私が見たこの夢について聞いてください。
7
見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
8
兄たちは彼に言った。
「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」
彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
9
再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。
彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
10
ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。
「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
11
兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。2017)とあります。

 ヨセフの夢は、神様が見させてくださった夢であったのでしょう。しかし、この夢が実現するまでには、20年以上の期間があったのです(創世記3724146,53.54426参照)。
そしてその期間の前期から中期にヨセフが遭遇した出来事は、普通の人なら絶望してもおかしくないような出来事であったのです。
しかし、ヨセフは、その期間の多くの時間を主と共に歩み続けました。

 やがてヨセフは兄たちの妬みのゆえに殺されそうになりました。しかし、折々に働かれる神様は、ヨセフが殺されないようにし、ヨセフをエジプトに送ったのです。
創世記3712-28には次のように記されています。
“12
その後、兄たちは、シェケムで父の羊の群れを世話するために出かけて行った。
13
イスラエルはヨセフに言った。
「おまえの兄さんたちは、シェケムで群れの世話をしている。さあ、兄さんたちのところに使いに行ってもらいたい。」
ヨセフは答えた。
「はい、参ります。」
14
父は言った。
「さあ、行って、兄さんたちが無事かどうか、羊の群れが無事かどうかを見て、その様子を私に知らせておくれ。」
こうして彼をヘブロンの谷から使いに送った。それで彼はシェケムにやって来た。
15
彼が野をさまよっていると、一人の人が彼を見かけた。
その人は「何を捜しているのですか」と尋ねた。
16
ヨセフは言った。
「兄たちを捜しています。どこで群れの世話をしているか、どうか教えてください。」
17
すると、その人は言った。
「ここからは、もう行ってしまいました。私は、あの人たちが『さあ、ドタンの方に行こう』と言っているのを聞きました。」
そこでヨセフは兄たちの後を追って行き、ドタンで彼らを見つけた。
18
兄たちは遠くにヨセフを見て、彼が近くに来る前に、彼を殺そうと企んだ。
19
彼らは互いに話し合った。
「見ろ。あの夢見る者がやって来た。
20
さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、狂暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか。」
21
しかし、ルベン〔レアの子でありヤコブの長子(筆者挿入)〕はこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、
「あの子を打ち殺すのはやめよう」と言った。
22
また、ルベンは言った。
「弟の血を流してはいけない。弟を荒野の、この穴に投げ込みなさい。手を下してはいけない。」
これは、ヨセフを彼らの手から救い出し、父のもとに帰すためであった。
23
ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らは、ヨセフの長服、彼が着ていたあや織りの長服をはぎ取り、24 彼を捕らえて、穴の中に投げ込んだ。その穴は空で、中には水がなかった。
25
それから、彼らは座って食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデからやって来ていた。彼らは、らくだに樹膠と乳香と没薬を背負わせて、エジプトへ下って行くところであった。
26
すると、ユダ〔レアの子でありヤコブの第4子(筆者挿入)〕が兄弟たちに言った。
「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはいけない。あいつは、われわれの弟、われわれの肉親なのだから。」
兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
28
そのとき、ミディアン人の商人たちが通りかかった。それで兄弟たちはヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でヨセフをイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。2017)とあります。

 息子たちの内の一人をひいきした父ヤコブの刈り取りはどのようなものであったでしょうか。
創世記3731-35には次のように記されています。
“31
彼ら〔ヨセフの兄弟たち(筆者挿入)〕はヨセフの長服を取り、雄やぎを屠って、長服をその血に浸した。
32
そして、そのあや織りの長服を父のところに送り届けて、言った。
「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」
33
父はそれを調べて言った。
「わが子の長服だ。悪い獣が食い殺したのだ。ヨセフは確かに、かみ裂かれたのだ。」
34
ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き悲しんだ。
35
彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」
こうして父はヨセフのために泣いた。2017)とあります。

 ヨセフはキリストの予型の一部をなしています。ですから、ヨセフについては、この箇所だけで判断することをせず、創世記の終わりまでを読む必要があります。そうすると、ローマ828の、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(抜粋・口語訳)ということが分かります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
色々と注意すべきことを教えられます。
また、御父が御子を十字架へと進ませることの中に、御父の心の痛みは、如何ほどであったかをも覚えます。
かくまで私たちを愛してくださった御父と御子に大いなる感謝を献げます。
我らの主イエス様の御名によって。アーメン。

2022年3月30日 (水)

祈りについて5/みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 マタイ610bを、
元訳は、爾旨(みこころ)の天に成(なる)ごとく地にも成(なさ)せ給(たま)へと訳し、
口語訳は、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。と訳し、 
岩波訳は、あなたの意志(おもい)が成りますように、天にあるように、地においても。と訳し、
2017
は、みこころが天で行われるように、地でも行われますように。と訳しています。

 神の御心(御旨)が、完全に地でも行われる時代というのは、新天新地が創造された後の時代でしょう。
この状態は永遠に続くのです。
イザヤ6517.18には、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」(2017)と記されています。

 新天新地の創造後の世界には、サタンやその配下の堕天使、悪しき霊、まことの神であるヤハウェ(主)のご命令に従わない人たち等は、皆火の池に入れられてしまった後であるからです。

 天にも地にも、ヤハウェ(主)を賛美することの大好きな人たちや天使たちだけがいるようになるのです。

 キリストの千年王国時代はどうでしょうか。
キリストの千年王国の開始時、あるいはその前には、サタン(悪魔)は捕らえられて、サタン用の牢獄に入れられています。
 黙示録201-3aには次のように記されています。
“1
また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして、天から下って来るのを見た。2 彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、3 千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。2017)とあります。
悪霊たちもみな同じであろうと思います。
悪しき霊的生き物が、地上で人に関与することができない状態が、キリストの千年王国時代には続くのです。

 また、キリストに表立って逆らう人たちは、キリストの地上再臨時に殺されてしまうか、火の池に入れられてしまいます。
 黙示録1911-21には次のように記されています。
“11
また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方〔再臨のキリスト(筆者挿入)〕は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。
12
その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13
その方は血に染まった衣をまとい〔イザヤ631-6{恐らく主を信じるユダヤ人すなわち選民を救ったため(マタイ2422と関係しているかも)}(筆者挿入)〕、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
14
天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
15
この方〔キリスト(筆者挿入)〕の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた〔裁きの言葉の発出でしょう(筆者挿入)〕。
鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。
また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方〔キリスト(筆者挿入)〕である。
16
その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
17
また私は、一人の御使いが太陽の中に立っているのを見た。
彼〔一人の御使い(筆者挿入)〕は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。
「さあ、神の大宴会に集まれ。18 王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」
19
また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方〔キリスト(筆者挿入)〕とその軍勢に戦いを挑むのを見た。
20
しかし、獣〔大患難時代の世界支配者(筆者挿入)〕は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。
21
残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。2017)とあります。

 また、再臨のキリストに戦いを挑まなかった人たちに対しても、キリストの千年王国の最初か、その前に、羊グループ(キリストの千年王国に入れる人達のグループ)と山羊グループ(キリストの千年王国に入れず罰せられる人たちのグループ)とを分ける裁きというものがあります。
 マタイ25章には次のように記されています。
“31
人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
32
そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
34
それから王は右にいる者たち〔羊グループの者たち(筆者挿入)〕に言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
37
すると、その正しい人たちは答えます。
『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40
すると、王は彼らに答えます。
『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち〔主キリスト・イエス様を信じて新生した人たち{ローマ828.29参照}(筆者挿入)〕、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
41
それから、王は左にいる者たちにも言います。
『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。42 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、43 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
44
すると、彼らも答えます。
『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45
すると、王は彼らに答えます。
『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
46
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」2017)とあります。
 マタイ1042の、「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」(2017)というイエス様の御言葉が成就するのです。
 また、次のような聖句(下記の12-14節)も関係あるのかも知れません(私の想像なので読み流してください)。
“10
すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
11
もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。
12
そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。
信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
13
また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
14
なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。
15
しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。
16
妻よ。あなたが夫〔離れていった夫(筆者挿入)〕を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻〔離れていった妻(筆者挿入)〕を救えるかどうか、どうして分かりますか。2017)とあります。

 何を言いたいかというと、キリストの千年王国に入れていただけた人達は皆、イエス様が、「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」(マルコ9402017)と語られた人たちなのだと思います。
しかし、キリストの千年王国に入れた人たちは、今と同じ肉体を持っているのです。
{キリスト者は、キリストの空中再臨時、すなわちキリストの地上再臨前には、肉の体から霊の体に変えられ、更に天において、花婿とであるキリストとの婚宴の儀をすませているのです。キリスト者はキリストの花嫁であり、肉体のまま、キリストの千年王国に入って来る人たちとは異なるのです。}

 肉体のままキリストの千年王国に入ってきた人たちは、結婚して子供を産みます。そのような状態が千年間続くのです。ですから、その子供達の中には、仕方なくキリストに従っている人たちも多く存在するのです。
そのような人たちが、なぜキリストに従うのかというと、キリストの力の故です。
前出の黙示録1915には、この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。2017)と記されていました。
 下線部分は、詩篇2篇の、・・・。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。
地の果ての果てまであなたの所有として。あなたは鉄の杖で彼らを牧し、・・・。8.92017)と記されているメシア預言に基づくものでしょう。

 キリストの千年王国時代に、心から主キリストに仕えない人たちは、キリストの千年王国終了時にサタンが獄屋から出されると、サタンに従って反旗を翻すのです。
黙示録207-9aには次のように記されています。
“7
しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、8 地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。9 彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。2017)とあります。

 その結果はどうなるのでしょう。
黙示録209b-10には次のように記されています。
“9
・・・。すると天から火が下って来て、彼ら〔反逆の民たち(筆者挿入)〕を焼き尽くした。10 彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。2017)とあります。

 「爾旨(みこころ)の天に成(なる)ごとく地にも成(なさ)せ給(たま)へ」(元訳)と祈るように教えてくださったのはイエス様です。

 イエス様は、イエス様を信じる者たち一人一人が、「私自身も主の御旨の通り歩めますように」と祈ることを期待していたと思います。

 キリストの血によって聖別され者たち(ヘブル1010)に対して、聖なる歩みをすることができるように変えてもらいなさい、ということをも含めて、主は言われているのではないかと思います。
 ローマ122には、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(2017)と記され、
 1テサロニケ43には、「神のみこころは、あなたがたが聖なる者〔実質的にきよい行いをする者(筆者挿入)〕となることです。」(2017)と記され、
 1ペテロ115.16には、「15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。16 『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」(2017)と記され、
 2コリント317.18には、「17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たち一人一人のキリスト者が、あなたの御旨に従い、実質的に聖なるものと変えられ、あなたの御名が崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ548・新共同訳)

2022年3月29日 (火)

悪しき者の口と暴虐と陰府と最後の審判

 箴言1111を口語訳は、“町は・・・、悪しき者の口によって、滅ぼされる。”と訳しています。

 詩篇115を口語訳は、“主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、そのみ心は乱暴〔暴虐(新改訳)〕を好む者を憎まれる。”と訳しています。

 この2か所の聖句を読むと、他国に侵攻している何とかさんは、このまま行ったら、主のみ前に出されたときには、どうなるのでしょう。

 キリストの復活以降の恵みの時代の人は、死んだ後に陰府に行く人と、いきなり天の神の王国に行く人とに分かれます。

 死んだ後に天の神の王国に入れていただける人は、イエス様を信じて新生した人です。
 イエス様は十字架につかれる前に、弟子たちに次のように語られました。
「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ142.32017)と。

 一方、イエス様を信じていない人(イエス様を心にお迎えしていない人)が死んだ場合には、陰府に行くことになります。

エゼキエル32章には次のような内容が記されています。
“17
第十二年〔エホヤキン王の捕囚から12年(筆者挿入)〕の、その月の十五日、私に次のような主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばがあった。
18
「人の子よ、エジプトの大軍のために嘆け。その民と力強い国々の娘たちを、穴に下る者たちとともに地下の国に下らせよ。
〔「穴」と訳されている語のヘブライ語原語は「タフティ」で、この箇所はその複数形です。「タフティ」とは、陰府、地獄、等の意で使われます。複数形ですから、色々な場所があるのです。(筆者挿入)〕
19
『あなた〔文脈上は「ファラオ」です(筆者挿入)〕は麗しさの点でだれよりもまさっているというのか。下って行って、無割礼の者たちとともに横たわれ。』
20
彼らは、剣で刺し殺された者たちの間に倒れる。その国は剣に渡された。その国とその大軍すべてを引きずり降ろせ。
21
勇敢な勇士たちは、国を助けた者たちとともに、よみの中から彼について語る
『彼らは下って来て、剣で刺し殺された者、無割礼の者たちとともに横たわった』と。
〔「よみ」と訳されている語のヘブライ語原語は「シェオール」です。(筆者挿入)〕
22
そこにはアッシリアとその全集団がいる。周りには彼らの墓があり、みな、刺し殺された者、剣に倒れた者である。
23
アッシリアの墓は穴の奥の方にあり〔彼らの墓は穴の底に設けられ(フランシスコ会訳)〕、その集団はその墓の周りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者で、生ける者の地に恐怖をもたらした者たちである。
24
エラムとその大軍がその墓の周りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者で、無割礼のまま地下の国に下った者、生ける者の地に恐怖をもたらした者たちで、穴に下る者とともに自らの恥辱を負っている。
25
その寝床は刺し殺された者たちの間に置かれ、その大軍すべてもその墓の周りにいる。みな、無割礼の者、剣で刺し殺された者である。彼らの恐怖が、生ける者の地にあり、穴に下る者とともに自らの恥辱を負っている。彼らは刺し殺された者たちの間に置かれる。
26
そこにはメシェクとトバルがおり、その大軍のすべてもその墓の周りにいる。みな、無割礼の者、剣で刺し殺された者で、生ける者の地に恐怖をもたらしたからである。
27
無割礼の者として倒れた勇士たちとともに彼らは横たわることはできない。勇士たちは武具を持ってよみに下り、剣は頭の下に置かれている。咎が彼らの骨の上にある。勇士たちのもたらした恐怖が、生ける者の地にあったからである。
28
しかしあなたは、無割礼の者たちの間で砕かれ、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる。
29
そこにはエドムとその王たち、そのすべての族長たちがいる。彼らは、その勇敢さにもかかわらず、剣で刺し殺された者たちとともに、無割礼の者たち、および穴に下る者たちとともに横たわる。
30
そこには北のすべての君主たち、すべてのシドン人がいる。彼らの勇敢さは恐怖をもたらしたが、恥を見、刺し殺された者たちとともに下ったのである。それで無割礼の彼らは、剣で刺し殺された者たちとともに横たわり、穴に下る者たちとともに自分たちの恥辱を負っている。
31
ファラオは彼らを見て、剣で刺し殺された自分の大軍、ファラオとその全軍勢のことで慰められる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。
32
わたしが生ける者の地に恐怖をもたらしたので、ファラオとその大軍は、無割礼の者たちの間で、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。」2017)とあります。

 陰府、地獄、といっても、複数形で書かれ、それは地下の国とも記されています。
またアッシリアなどは、より深いところに入れられていることが分かります。
アッシリアは、捕虜の生皮を剥いだり、生きたままの人を肛門から口へと串刺ししたこともあった、とも言われています。

 イエス様は陰府について次のようなことを語りました。
19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
〔ラザロは、病気で、仕事もできず、貧しかったのでしょうが、おそらく主を信じていたのでしょう。(筆者挿入)〕
21
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
22
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
23
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
〔キリストの贖いが成就する前は、例外を除いて、死んだ後、すぐに天国に行くことは出来ませんでした。陰府でも良い人たち{ヤハウェ(主)を信じていた人たち}のいく陰府があったようです〔1例として、1サムエル2811-20(筆者挿入)〕。
〔キリストの贖いが成就した後、陰府の中の善い人たちの行く場所にいた人たちは天に移されたようです(エペソ48){筆者挿入}〕。
24
金持ちは叫んで言った。
『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
25
するとアブラハムは言った。
『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
27
金持ちは言った。
『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
29
しかし、アブラハムは言った。
『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
30
金持ちは言った。
『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
31
アブラハムは彼に言った。
『モーセと預言者たち〔聖書(筆者挿入)〕に耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16章・2017)と記されています。

 陰府も色々な所があるようです。
旧約時代は、キリストの贖いの成就、サタンに対するキリストの勝利、死に対するキリストの勝利等がまだなかったので、ヤハウェ(主)を信じていた人も陰府の善き所に囚われていたようです。エペソ48の“・・・「彼〔キリスト(筆者挿入)〕はいと高き所に上ったとき、捕虜〔よみの善き所に入れられていた人たち(筆者挿入)〕を連れて行き、・・・。」”ということが起きたのでしょう。
 マタイ2751-53には次のような記述があります。
“51
すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
地が揺れ動き、岩が裂け、
52
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った
53
彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。2017)とあります。

陰府は、最後の審判によってなくなります。死も最後の審判の後には無くなります。最後の審判の後、神が新天新地を創造するからです。
 黙示録20章には、最後の審判、すなわち白い御座の裁きというものが開かれることが次のように記されています。
“11
また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
12
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
13
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
14
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
15
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。2017)とあります。

 さばきをなさる神は公正なお方です。
詩篇98には、“主は義によって世界をさばき、公正をもってもろもろの国民をさばかれる。”(2017)と記され、
詩篇989には、“主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。”(口語訳)と記され、
ヨハネ522には、「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕にゆだねられたからである。」(口語訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御言葉によれば、ロシアのウクライナ侵略は暴虐です。
しかし、両国の人々に目を向けると、両国にはキリスト者がおります。
あなたは、祈りを通して御手を動かされるお方です。
今回のプーXX命令下におけるロシア軍侵略について、何が真実なのか、私には、報道からは正しくは理解することが出来ません。
しかし、侵略は悪いことです。
両国のキリスト者の祈りを御聖霊が導き助けてくださり、御父の御旨に沿った祈りを祈ることができますよう助けてください。
悲惨な戦争を通して、救われる人がおこされていきますように。
いくら長生きしても、イエス様を信じないで死を迎えたら、それは罪に罪を重ねて死んだ、ということにしかならないからです。
未だ、大患難時代に入っているわけではないのに、世界は病原ウィルスに苦しめられ、戦争があり、民族は民族に敵対し、方々でかなり大きな地震がおきています。
大患難時代には、もっとひどい伝染病や戦争や飢饉や天変地異までも起きると預言されています。
願わくは、私たちが祈っている人々が救われますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月28日 (月)

主に信頼している者は主が揺らがないようにしてくださる

 詩篇217-13には次のように記されています。
“7
王は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼しているので、いと高き方の恵みにあって揺るぎません。
8
あなたの御手はすべての敵を見つけ出し、あなたの右の手はあなたを憎む者を見つけ出します。
9
あなたの現れのとき、あなたは彼らを燃える炉のようにされます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は御怒りによって彼らを呑み尽くし、火は彼らを食い尽くします。
10
地の上から彼らの裔を、人の子らの中から彼らの子孫を、あなたは滅ぼしてしまわれます。
11
彼らがあなたに対して悪を企て、計略をめぐらしても、成し遂げられません。
12
あなたは彼らが背を見せるようにし、弓弦を引き、彼らの顔を狙われます。
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの御力のゆえに、あなたがあがめられますように。大いなる御力を私たちは歌いほめ歌います。2017)とあります。
(新共同訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は、8-14節の箇所になります)

 7節を、
2017
は、王は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼しているので、いと高き方の恵みにあって揺るぎません。と訳し、
同じ個所を聖書協会共同訳は、王は主に信頼し、いと高き方の慈しみにより、揺らぐことはない。と訳しています。

「恵み」(2017)、「慈しみ」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヘセド」で、親切、思いやり、が原義で、その他、慈悲、慈悲深い、哀れみ、善行、恵み、・・の意があります。新改訳聖書は、「恵み」と訳していますが、文語訳、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、「慈しみ」と訳しています。

 王は主に信頼し、いと高き方の慈しみにより、揺らぐことはない。(聖書協会共同訳)とありますが、王に限らず、主に信頼する者すべてに対して、主、すなわちいと高き方は、ご自身の親切(慈しみ)のゆえに、主に信頼する者を揺らぐことがないようにしてくださるのです。

 主に信頼することor主の御言葉に信頼することからそれて、自分が置かれている厳しい状況に心が向くと、その人は揺らいでしまいます。
次にペテロの実話を転記しておきます。
“22
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
23
群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
24
ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
25
夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
26
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
28
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
29
イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
30
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
31
イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
32
そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
33
舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。(新共同訳)と記されています。

 主に信頼し続けて歩んでいたのに、フッと魔がさすときがあります。その時の不信仰の思いが、自分の弱さから来ているとは限りません。結構、サタン(敵対者)が不信仰の思いを入れてくるのです。その時には、すぐに、主の御名によって、不信仰、不従順の霊を追い払う必要があります。そして聖霊に満たされて歩めるようにさせてください、と祈るのです。
また、信仰と自分の願望に基づく思い込みとは区別する必要があります。

 9-11節には、“9 あなたの現れのとき、あなたは彼らを燃える炉のようにされます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は御怒りによって彼らを呑み尽くし、火は彼らを食い尽くします。
10
地の上から彼らの裔を、人の子らの中から彼らの子孫を、あなたは滅ぼしてしまわれます。
11
彼らがあなたに対して悪を企て、計略をめぐらしても、成し遂げられません。”とあります。

 詩篇21篇は、ダビデの詩篇とありますから、その当時もそのようであったのでしょう。
決定的なのは、キリストの地上再臨の時と、キリストの千年王国の終わりの時のことです。それらの成就はまだこれからのことですが、次のように記されています。
“19
また私は、獣〔時の世界支配者(筆者挿入)〕と地の王〔国家元首(筆者挿入)〕たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方〔再臨のキリスト(筆者挿入)〕とその軍勢に戦いを挑むのを見た。
20
しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者〔時の世界宗教指導者(筆者挿入)〕も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。
21
残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。(黙示録19章・2017)とあり、

また、“7 しかし、千年〔キリストの千年王国の千年(筆者挿入)〕が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、
8
地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。
9
彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都〔キリストの千年王国時代のエルサレム(筆者挿入)〕を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。
10
彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。とあります。

 主なる神様には、神様の裁きの時があるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの慈しみ深い御名を賛美します。
常にあなたを信頼し続けて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月27日 (日)

ベン・オニからベニヤミンへ

  創世記3516-18には次のように記されています。
“16
彼らはベテルから旅立った。
エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
17
彼女〔ラケル(筆者挿入)〕が大変な難産で苦しんでいたとき、
助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
18
彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。
しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。2017)とあります。

 ヤコブから愛されたラケルは、第二子の出産は、相当の難産で、それが元で死去したのです。
ラケルの分娩時の死亡原因は、脳出血のようなものであったのではないかと思います。当時は、血圧計はなく、妊娠時高血圧症候群などというような概念はなかったことでしょう。
或いは、子宮からの大量出血によるものであったかもしれません。

 いずれにしてもラケルは、出産した子に名前を付ける時までは意識があったのです。
しかしラケルは苦しみのあまり、ベン・オニという名前を付けました。
ヘブライ語の「ベン」は、息子の意です。
「オニ」とありますが、ヘブライ語の発音では「オーニー」となるようです。
「オーニー」は、「アーヴェン」という語根に、私の(イー)、という接尾辞がついて、「オーニー」となったのでしょう。
「アーヴェン」には、喘ぐ、の意があり、困難、苦しみ、悲哀、後悔、・・・等の意もあります。

 この時に生まれた子が、物心がつき、言葉の意味もよくわかるようになったとき、「ベン・オニ」では、心が折れたことでしょう。

 父親のヤコブは、「ベン・オニ」ではなく、「ベニヤミン」という名前を付けました。
「ベニー」は、私の息子、の意で、「ヤーミーン」は、右手の意があります。
ヤコブは、「私の右手の子」という名前にしたのです。
「右手の子」というのは、後継者,名誉な者という意味です。
「右」には、権威、力、等の意が含まれているのでしょう。
主キリスト・イエス様は、ご復活の後、御父の右の座につかれ(マタイ1619、ルカ2269)、天地の主権者とされたのです(マタイ2818)。
ヤコブが愛したラケルの子どもは、ヨセフとベニヤミンでしたが、ベニヤミンが生まれる前に、ヨセフは、ヤコブの前から姿を消していました。
ヨセフがヤコブの前から姿を消した原因は、ヨセフに対するヤコブの偏愛、ヨセフに対する異母兄弟たちのねたみによるものと思われます。
ヤコブにとって、ヨセフがいなくなってからのラケルとの子どもを、彼は、「私の右手の子」、ベニヤミン、と名づけたのでした。

 実際、ヨセフは、兄弟たちの憎悪からイシュマエル人に売られたのです。
イシュマエル人はエジプト王の侍従長ポティファルに売りました。
ヨセフの異母兄弟たちは、父親のヤコブに、雄やぎの血に浸したヨセフの長服を見せました。
ヤコブは、ヨセフが獣に殺されたものと思い、幾日も嘆き悲しんだのです。(創世記37章)
ヤコブにとって、ベニヤミンは、ヨセフなきあとの愛するラケルのただ一人の子どもであったのです(その当時のヤコブは、ヨセフが生きていることを知りませんでしたから)。
ベニヤミンは、年老いたヤコブの生きる望みとなったのでした(創世記421-444章、特に29,34節)。

 「ベン・オニ」と名づけられた子が、「ベニヤミン」になるなんて、なんとすばらしいことでしょう。
私たちキリスト者は、「あーあ、どうしてこんなことに」と言いたくなるようなことに遭遇したとしても、主なる神様は、それをも用いて、良きものとしてくださるのです。
ローマ828に、神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となる・・。(聖書協会共同訳)という聖句を思い浮かべます。

 ラケルは、苦しみから「ベン・オニ」(私の苦しみの子)と名づけましたが、ヤコブは、「ベン・オニ」を「ベニヤミン」に変えたのです。

 私たちが、自らの至らなさのゆえにトラブルを起こしたとしても、神様は、ヤコブがしたように、良きに計らってくださるのです。
ローマ828を、口語訳は、神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・。と意訳しています。

 ベニヤミンから出た聖書の中の有名人には、パウロ、モルデカイ、エステル、サウル(イスラエルの初代の王)、ヨナタン、エフデ、その他多くの勇士たち(1歴代誌840)がいました。
ヤコブは、死を前にして、「ベニヤミンはかみ裂く狼」と預言しました(創世記4927)が、ベニヤミンの末裔には、武力に優れた人が多いですね(士師記20章)。

<お祈り>
神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる天のお父様、
あなたの御名を崇めて感謝します。
あなたを愛する者も、様々な所を通りますが、あなたがすべてを益にしてくださいますからありがとうございます。
あなたに愛されている私たちが、益々あなたを愛し、あなたの御旨に従って歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月26日 (土)

祈りについて4/御国が来ますように

 マタイ610には次のように記されています。
 元訳は、爾國(みくに)を臨(きた)らせ給(たま)へ爾言(みこころ)の天に成(なる)ごとく地にも成(なさ)せ給へと訳し、
 文語訳は、御國の來らんことを。御意(みこころ)の天のごとく地にも行はれん事を。と訳し、
 口語訳は、御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。と訳し、
 新共同訳は、御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。と訳し、
 岩波訳は、あなたの王国が来ますように。あなたの意志(おもい)が成りますように、天にあるように、地においても。と訳し、
 フランシスコ会訳は、み国が来ますように。み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。と訳し、
 新改訳2017は、御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。と訳し、
 聖書協会共同訳は、御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。と訳しています。
 以上、日本語訳の変遷を記しました。

 御国が来ますように。について考察します。
イエス様の公生涯の初め、イエス様は、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(2017)と語られました。
そして、イエス様が、悪霊につかれた人から悪霊を追い出した場面で、イエス様は、「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12282017)と語られました。

 「御国」と訳されたギリシア語原語は「バシレイア」で、王の領土(支配領域)、王の統治、王の支配、・・・等の意があります。

 イエス様が、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6332017)と語られた箇所がありますが、
ここでは、一人一人に語られているので、「神の国」は神の支配、を指しているのでしょう。自分自身を自発的に、キリストに明け渡して、キリストに支配してもらいなさいということでしょう。キリストに明け渡し、キリストに支配していただくというのは、御父に明け渡し、御父に支配して頂くことをも意味しています。
キリストに支配していただいている人の体は、神の領土でもあります。
1
コリント316に、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。〔知っているでしょう。筆者挿入)〕」(新共同訳)と記されている通りです。

 キリストの現れのとき(コロサイ34)、すなわちキリストの空中再臨までは、この様な状態が続きます。
キリストの空中再臨時に、主が来られるのを待ち望んでいたキリスト者(ヘブル928)は天に引き上げられます(1テサロニケ416.17)。「引き上げられ」とありますが、「引き上げる」のギリシア語原語は、「ハルパゾー」で、catch up”です。日本では、携挙と言われています。
それから約7年後のこと、キリストの地上再臨があります。
そこから、キリストの千年王国が始まっていくのです。
キリストの千年王国は、キリストが王であり、地球は、キリストが支配する領土であり、地上に住むすべての人は、キリストの統治下に入るのです。

 以上の出来事によって、御国が来ますように、という祈りは、ほぼ完了したかに見えますが、まだ続きがあります。
キリストの千年王国の終了時に、サタン(悪魔)が獄屋から解放されるのです。
するとどのようなことが起こるのでしょうか?

 黙示録20章には次のように記されています。
“7
しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、8 地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグ〔ゴグやマゴグというのは、神とキリストに潜在的に不服従の心を持っている人たちのことでしょう(筆者挿入)〕を惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。
9
彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。
10
彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣〔大患難時代の世界支配者(筆者挿入)〕も偽預言者〔大患難時代の世界宗教指導者(筆者挿入)〕もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。2017)とあります。

 キリストが支配してくださっておられたのに、驚くべきことに、悪魔(サタン)が解放されると、サタンについて行く人々が非常に多くいたのです。世の中から争いや戦争がなくならない理由がよく分かります。イエス様が義と愛をもって、そして、生活に必要な物をすべて満たしてあげて、そして、寿命も長くしてあげているのに、キリストに感謝せず、悪魔について行く人々が多くいるのですから。

 キリストの千年王国が終わり、神に対する敵対勢力が地上から一掃された後、最後の審判が行われる前に、今の宇宙は消失します(黙示録2011b2ペテロ310)。
その後、最後の審判が行われます。

 最後の審判については、黙示録2011-15に次のように記されています。
“11
また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
12
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
13
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
14
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
15
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。2017)とあります。

 キリスト者は裁かれません(ヨハネ318a)。
キリスト者は、キリストの千年王国が始まる前に、花婿キリストとの婚宴の儀を天で経験しているのです。キリストとキリスト者はお互いに愛し愛される関係です。

 さて、今の天地(宇宙)が崩壊させられた後、神は、新天新地を創造されます(イザヤ6517、黙示録211)。
天も地も、御父が治めるのです。とこしえに。
 1コリント1520-28には次のように記されています。
“20
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
21
死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
22
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
23
しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
24
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
25
すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
26
最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
27
「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
28
そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様を信じていない人には荒唐無稽な話ですが、私たちは、あなたの御約束を何の疑いもなく信じることが出来るようにされているのですからありがとうございます。
「御国が来ますように」と日々祈りますが、やがてはその完全な成就を見させて頂けますことを感謝します。
想像しきれない御力をお持ちのあなたの御名をあがめ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月25日 (金)

正しい人は永遠に揺るがされることがない

 箴言1030には、
正しい人は永遠に揺るがされることがない。
しかし、悪しき者は地に住むことができない。”(2017)と記されています。
 同じ個所を新共同訳は、
神に従う人はとこしえに揺らぐことなく
神に逆らう者は地に住まいを得ない。と訳し、
 リビングバイブルは、
正しい人は必ず神に祝福され、
悪者は何もかも失います。と意訳しています。

 「正しい人」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、正しい、公正な、法を順守する、正しい(人)の意があります。

 「永遠に」(2017)、「とこしえに」(新共同訳)、「必ず」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「オーラーム」で、原義は、不顕性の、隠れた、潜在的な、等の意があり、更に、永遠、無限、常に、如何なる時にも、・・・等々の意があります。

 「揺らぐ」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「モート」で、揺れる、揺れ動く、滑る、落ちる、倒れる、・・等々の意があります。
「モート」の前の単語のヘブライ語原語は、「バル」で、原義は、失敗、ですが、notnothingno等の意を含意しています。

 以上のことから、「正しい人or律法を順守する人or公正な人は、永遠にor決してorいつも、揺るがされることはない。」という意になります。

 次に「正しい人」の考察をします。
「正しい人」とは、「義人」の意です。
「義人」について、聖書辞典は、簡潔明瞭に述べていますので、その文章を下記します。
“ 
義人〔とは、(筆者挿入)〕元来、神の教えを守り行う人のことで、正しい人を指している(ハバクク24、ローマ310)。しかしこの正しさは、単に道徳的、人格的に完全であるという意味ではなく、神の意志に背かず、従うことである。すべての人間は罪を犯したので、義人と呼ばれる人は一人もいない(ローマ323)。人間は、自分の努力で義を得ることはできない(ローマ328)。なぜなら神の義は一方的な神の恵みによるのであり、神から無代価で与えられる贈物なのだからである。人間は信仰によってのみ義とされる(ローマ324、エペソ28)。そして信仰によって義と認められた人は、最後まで信仰によって生きるのである(ローマ117、ガラテヤ311、ヘブル1038)。と述べています。

 「正しい人」と言われると、結構多くのキリスト者が、「自分はダメだ」というのです。
それは、ある意味正しいのですが、それでは、イエス様が残念がります。
イエス様は、イエス様を信じる者ん義となってくださったのです。
1
コリント130には、
・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。
キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。2017)と記されています。

 自分の行いを見つめて、自分は、「正しくない、だからだめだ。」という人の信仰は不安定です。救われているのか救われていないのかが分からなくなり、神に受け入れられているのか、見放されているのか、あるいはまた捨てられているのか、と心配になります。

 どうして、そのようなことが起こるのでしょうか?
その原因は、自分ばかりを見つめて、イエス様の約束の御言葉にしっかりと立脚しないからです。
 イエス様を信じて救われた者に対し、霊の父は、ご自身の聖さにあずからせようとして矯正します(ヘブル1210)。救いにあずかったからこそ、神様は、その人を、聖くしようとするのですが、当の本人は、それが分からず、キリストの救いの約束を忘れor救いの御言葉に立脚することが出来ず、「自分はダメだ。」と思ってしまうのではないかと思います。

 ヘブル1210.11には、
・・・、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。2017)と記されています。

 救いについては、救いの約束に関する御言葉に信頼しきることです。
生活の不安については、神を第一としていれば、神が養ってくださるという約束の御言葉に信頼することです。

 神を信じるとは、神の御言葉を信じることにも通じます。
イエス様は、「神のことば」(黙示録1913)、「ことば」(ヨハネ11)と呼ばれるお方です。

 神に信頼する人、すなわち神の御言葉に信頼する人は、とこしえに揺るがされることないのです。

 聖歌に「栄の王にます主の」という賛美があります。
その歌詞を下記します。
“1
栄えの王にます主の 御言葉に堅く立ちて 「神には御栄えあれ」と 高く歌い叫ばん
立て立て 永久(とわ)に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て

2
世は変わるとも変わらぬ 御言葉に堅く立ちて 惑い恐れの嵐に 心は乱されじ
立て立て 永久(とわ)に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て

3
全(また)く罪をきよめんとの 御言葉に堅く立ちて 君の血潮を受けしに 自由の身となれり
立て立て 永久(とわ)に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て

4
愛もて主に結びつき 御言葉に堅く立ちて 悪魔に向かえば常に 勝ち得て余りあり
立て立て 永久(とわ)に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て
とあります。

アーメン。ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
たくさんの約束の御言葉を感謝します。
あなたの約束の御言葉を単純に素直に信じ続けて歩む者であらせてください。
御名をほめたたえ、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月24日 (木)

祝福を与えてくださる主

 詩篇211-6には次のように記されています。
指揮者のために。ダビデの賛歌。
1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの御力を王は喜びます。
あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。
2
あなたは彼の心の望みをかなえ、唇の願いを退けられません。セラ
3
あなたは、幸いに至る祝福をもって彼を迎え、頭に純金の冠を置かれます。
4
いのちを、彼はあなたに願い、あなたは彼にそれをお与えになります。
いつまでもとこしえまでも限りなく。
5
御救いによって、彼の栄光は大いなるものとなり、威厳と威光をあなたは彼の上に置かれます。
6
あなたはとこしえに彼に祝福を与え、御前で喜び楽しませてくださいます。2017)とあります。

 王のための感謝の賛美がうたわれている詩ですが、王の代わりにキリスト者一人一人にあてはまる内容でもあります。
ダビデ王に関して言えば、彼は地上で祝福を受けましたが、キリスト者は天の御国の民ですから、地上でダビデと同じような祝福を受ける人はあまりいないかも知れません。

 イエス様は、ローマの総督ピラトの前で、「わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18362017)と語られました。
新生したキリスト者は、この世のものではなく、この世に遣わされているのです。
大祭司の祈りといわれているイエス様の祈りの中に、「あなた〔御父(筆者挿入)〕がわたしを世に遣わされたように、わたしも彼ら〔弟子たち(筆者挿入)〕を世に遣わしました。」(ヨハネ17182017)という文言があります。

 新生したキリスト者は天におられる御父の王国の民なのです。
イエス様のお話の中に、「そのとき、 義人たちは彼らの父の王国において、太陽のように光り輝くであろう。耳ある者は聞け。」(マタイ13432017)というものがあります。

 話を元に戻します。
1
節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの御力を王は喜びます。
あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。”とありますが、キリスト者向けに書き換えると、
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの御力を私たちキリスト者は喜びます。
あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。」
と言えると思います。

 2節には、“あなたは彼の心の望みをかなえ、唇の願いを退けられません。”とあります。
イエス様は次のように語られました。
「そしてなんであれ、あなたがたが私の名において〔ギリシア語原語は「イン(orエン) トー オノマティ」で、英訳するとin my nameです(筆者挿入)〕何かを願うなら、それを私は行なう。 子において父が栄光を受けるために。あなたがたが私の名において私に何か願うことがあれば、この私が行なう。」(ヨハネ1413.14・岩波訳)と記されています。
また使徒ヨハネは、「何事でも神の御心に適う{かなう(適合する)}ことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」(1ヨハネ514・新共同訳)と記しています。

 常に退けられない祈り、御父の御旨に叶う祈りをすることができたらと願います。

 3節には、あなたは、幸いに至る祝福をもって彼を迎え、頭に純金の冠を置かれます。とあります。

 三一の主なる神様は、幸いに至る祝福をもって私たちを迎えてくださいました。
御父は、天地創造以前に、キリストにあって選んでくださいました(エペソ14)。
イエス様は、御子であるのに、定めの時に、神の御子としてのありようを捨て、人の子として生まれ、十字架上で私たちの罪のための贖いを成し遂げてくださったのです。
御聖霊は、私たちに、イエスがキリストであり、神の御子であり、救い主であることを悟らせてくださいました。そればかりではなく、私たちの地上生涯の間、助け主(パラクレイトス)として私たちを助け、支え導き、真理を教え、力を付与してくださっておられるのです。

 3節後半には、頭に純金の冠を置かれます。とあります。
キリスト者に与えられる冠には、色々な種類がありますが、少なくともキリスト者は、義の冠をかぶせて頂けます。
使徒パウロは、テモテに、「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ47.82017)と書き送りました。
「主の現れ」とは、キリストの空中再臨時のキリストの現れです。この時に、キリスト者は霊の体を与えられ、携挙されるのです。
ヘブル928には、「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(2017)という聖句が記されています。

 4節には、いのちを、彼はあなたに願い、あなたは彼にそれをお与えになります。
いつまでもとこしえまでも限りなく。とあります。

 私の場合について言えば、私は、永遠のいのちとは如何なるものかということも知らなかったのです。
私は、心の平安を求めて、イエス様を信じ、心の平安を頂きました。
永遠のいのちを求めてイエス様のもとへ行ったのではありませんでしたが、イエス様は、永遠のいのちまでも与えてくださったのです。

 5.6節には、“5 御救いによって、彼の栄光は大いなるものとなり、威厳と威光をあなたは彼の上に置かれます。
6
あなたはとこしえに彼に祝福を与え、御前で喜び楽しませてくださいます。2017)と記されています。

 キリストの現れ(キリストの空中再臨)から約7年、天において次のことが起こります。
“5
また、御座から声が出て、こう言った。
「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」
6
また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊〔キリスト(筆者挿入)〕の婚礼の時が来て、花嫁〔キリスト者の総体(筆者挿入)〕は用意ができたのだから。8 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
9
御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。(黙示録19章・2017)と記されています。

 A.B.Simpson“Jesus only is my message”という歌詩の日本語訳に「ただ主を」というのがあります。
その5節で、A.B.Simpsonは、
「主こそ来るべき 王の王 主の主 わが花婿なれ われは恋慕う」と歌っています。

 黙示録219-11には、
“9
・・・七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。
「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」
10
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
11
都には神の栄光があった。・・・。と(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。 
あなたの御名を賛美します。
あなたは、御父であるあなたのご計画と、キリストの贖いと、御聖霊の働きという三一の主なる神の働きにより私たちを御救いにあずからせ、私たちを栄光から栄光へと引き上げ、私たちに威厳と威光を与え、更に、あなたはとこしえに私たちを祝福し、御前で喜び楽しませてくださいます。
ハレルヤ!
大いなる御名をあがめて感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月23日 (水)

たましいと霊と肉体の関係

 ラケルの死について、創世記35:16-20には次のように記されています。
“16
彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
17
彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
18
彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
19
こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。
20
ヤコブは彼女の墓の上に石の柱を立てた。それはラケルの墓の石の柱として今日に至っている。2017

18
節を、
 2017は、彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。と訳し、
 文語訳は、彼死にのぞみてその魂さらんとする時その子の名をベノニ(吾苦痛の子)と呼たり然ど其父これをベニヤミン(右手の子)となづけたりと訳し、
 口語訳は、彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時、子の名をベノニと呼んだ。しかし、父はこれをベニヤミンと名づけた。と訳し、
 新共同訳は、ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき、その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付けたが、父はこれをベニヤミン(幸いの子)と呼んだ。と訳し、
 聖書協会共同訳は、ラケルは死にかかって命が絶えようとしたとき、その子をベン・オニと名付けた。しかし父はこれをベニヤミンと名付けた。と訳し、
 フランシスコ会訳は、息を引き取ろうとしたとき、彼女はその子をベン・ オニと名づけたが、その子の父は彼をベニヤミンと名づけた。と訳しています。

 下線部分の「たましい(魂)」、「息」、「命」と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ」で、呼吸している生き物の意ですが、幅広い意味で使用される単語で、息、魂(人の意識・思考・感情・意思などの能力の源と考えられる無形の実体)、体、思い、・・・、等々の意としても用いられています。

 話は変わりますが、私は、聖書は啓示の書であり、またその啓示には、漸進性があると思っています。

 新約聖書の中の「たましい(魂)」と記されている聖句の中から、1テサロニケ523を下記します。
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。2017)と記されています。
 同じ節を、新共同訳は、どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。と訳しています。
原文は、ギリシア語で記されています。
この聖句に使われている「霊」、「魂」、「体」と訳されている語のギリシア語原語は、
「霊」:プニューマ
「魂」:プシュケー
「体」:ソーマ
です。

 それらをヘブライ語で記すと、
「霊」:ルーアハ
「魂」:ネフェシュ
「体」:バーサール(厳密に言うと「肉」)
ということになると思います。

創世記27を、
 2017神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。と訳し、
 文語訳は、ヱホバ神土の塵を以て人を造り生氣(いのちのいき)を其鼻に嘘入(ふきいれ)たまへり人即ち生靈(いけるもの)となりぬと訳し、
 KJVは、“And the LORD God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul.”と訳しています。

「人」と訳されているヘブライ語原語は「アーダーム」で、
「息」と訳されているヘブライ語原語は「ネシャーマー」で、
「{いきる}もの(者)、soul」と訳されているヘブライ語原語は「ネフェシュ」です。
ネシャーマーは、息の他、魂、霊の意でも訳されることがあります。
ネシャーマーは、人を生かしている霊を指しているのではないかと思います。
詩篇1464には、“霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる。”(新共同訳)と記され、
ヤコブ226には、霊のない体が死んだものであるように、・・。(聖書協会共同訳)と記されています。
ヤコブ226の「霊」と訳されている単語を、2017も霊と訳しています。ギリシア語原語は「プニューマ」です。
新改訳第三版や、新共同訳の時代までは、「たましい」と訳出されていました。
KJV
訳は、“spirit”と訳しています。

 日本語訳聖書で、「たましい(魂)」と最初の出てくるのは、創世記3518です。
主なる神様は、人をつくるとき、初めに土のちりで、すなわち地球上にある元素で人の体を造りました。しかし、そこに命はなかったのです。命の息を吹き入れたら、生きた者となったのです。
KJV
は、生きたsoul(魂)となった、と訳しています。
KJV
訳のように捉えないと、魂がいつどこで造られたのか、発生したのか、わからないのです。

 ルカは、死んだ少女がよみがえったときのことを次のように記しました。
“49
イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
50
これを聞いて、イエスは答えられた。
「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
51
イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
52
人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。
「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
53
人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
54
しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。
「子よ、起きなさい。」
55
すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。
56
両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。(ルカ849-562017)とあります。

 以上のことを考え合わせると、肉体の中には魂があり、魂の中には霊があることが分かります。

 但し、霊というのも複雑です。
神は霊です。
天使も霊です。
悪霊も霊です。
新生していない人の人の霊もあります(ゼカリヤ121、ルカ855)。
新生した人の霊もあります。

 霊と魂とは同じであるという人もいますが、ヘブル412には次のように記されています。
 2017は、神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、・・・を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。とあり、聖書協会共同訳も、フランシスコ会訳も、岩波訳も同じような意味合いで訳しています。

 キリスト者の新生させていただいた霊は、霊である神から生まれた神の子どもとしての霊であると、私は信じています。

 イエス様を信じる以前であっても、人の体を生かす霊を持っています。そのことは既に述べてきたとおりです。その霊は命の息とも言われるものです。

<新生させていただいた人の霊についての参照聖句>
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ332017
 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(ヨハネ36・新共同訳)
 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。1ペテロ132017
 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。1ヨハネ322017
 生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。(ヨハネ11262017

 私とは異なる意見の方もおられるでしょうが、この件についての論争は致しません。それは、私が、論じ合うほどのものを持っていないからです。
天に帰った後には正確なことがわかることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様を信じることを得させてくださり、既に、霊においては、「生きていてわたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」という聖句が私に適用されておりますことを感謝します。
御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月22日 (火)

祈りについて3/御名が聖なるものとされますように

 日本の多くのキリスト者たちの間で、いわゆる「主の祈り」として唱和されているところの、「主イエス様が教えてくださった祈り」は文語調で唱和されることが多く、初めの祈りの言葉は、「天に在ます我儕の父よ。願くは爾名を尊崇させ給へ。」{(元訳)「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。」}というものであろうと思います。

マタイ69を、
 文語訳は、この故に汝らは斯く祈れ。「天にいます我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を。と訳し、
 口語訳は、だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。と訳し、
 新共同訳は、だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』と訳し、
 岩波訳は、だからあなたたちはこのようにいのれ。『天におられる、私たちの父よ、あなたの名が聖なるものとされますように。と訳し、
 新改訳第三版は、だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』と訳し、
 フランシスコ会訳は、「だから、あなた方はこう祈りなさい、『天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。』」と訳し、
 新改訳2017は、ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。』と訳し、
 聖書協会共同訳は、だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように。』と訳しています。

 私が持っているその他の日本語訳聖書も似たような訳になっています。
「御名が崇められますように」という訳と、「御名が聖なるものとされますように」という訳に大別されます。
「ハギアゾー」は、「聖とされる」というのが原義で、きよめる、聖別する、あがめる、神聖化する、崇敬する、等の意もあります。

 リビングバイブルは、ですから、こう祈りなさい。『天におられるお父様。あなたのきよい御名があがめられますように。』と意訳しています。

 「崇める」という語は、普通、 きわめて尊いものとして敬う。崇敬する。”の意味で用いられます。

 「聖」という概念について、聖書辞典は多くの字数を費やしていますが、神との関係の部分の中の一部分のみを下記します。
聖書における「聖」の概念は最も重要で根本的なものであり、聖書の神の本質的性格を表すものである。それゆえ、この概念を単に神の属性の一つと見なすのではなく、かえって、神のすべての属性がこれに関係してくる中心的、本質的性質と見るべきである。
 父なる神の「聖」。
新約聖書において、神が聖であることの言及は比較的少ない。しかし、だからといって新約は、父なる神の聖について旧約よりも重要視していないと見るのは早計である。むしろ旧新両約聖書において、それは調和をもって述べられていると見るべきである。すなわち旧約ではすでに神の聖について十分に語られ、・・・・ている・・・。
 キリスト御自身もその祈りの中で「聖なる父」(ヨハネ1711)と呼びかけている。
 使徒ヨハネは神の黙示を述べる時、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主」(黙示録48)という聖徒たち〔本文は「四つの生き物」(2017)で、おそらく天使たちでしょう(筆者挿入)〕の賛美を記して、神が聖であることを描写している。”とあります。

 イエス様が教えてくださった祈りは、祈りの骨格をなすものであると考えられますから、一字一句を、全く同じように祈る必要はないかと思います。
イエス様が教えてくださった祈りの最初の文言は、聖い父の御名が聖とされますようにor父の御名が崇められますように、というものでありました。
すべての根源であられる聖なる御父がまず崇められること、人の歩みは、そこから始まるということを教えてくださっておられると思います。
聖書は、正しい生き方の根本は、主権在民や主権在国家元首ではなく、「主権在神」であることを教えてくれています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの聖い御名が崇められますように。
今日もあなたの御旨に従って歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月21日 (月)

正しい人の望むことはかなえられる

 箴言1024を、
2017
は、悪しき者の恐れることはその身に降りかかり、
正しい人の望むことはかなえられる。と訳し、
聖書協会共同訳は、悪しき者の恐れていることはその身に起こり、
正しき者には願い通りのことが与えられる。と訳しています。

 「悪しき者」と訳されている語のヘブライ語原語は、「ラーシャー」で、(道徳的に)悪い人、積極的に悪い人、不信心(不敬虔)な人、・・等の意があります。

 「正しい人」と訳されている語のヘブライ語原語は、「タアッヴァー」で、切望する人、正しい人、等の意があります。

 私は、「自分は、悪いことが起こるのではないかと思うことが、自分の身に頻繁に起こるのは、どうしてなのでしょうか?」と質問されたことがあります。
一般に、思い煩うことの9割以上は起こらない、と言われたりもしますから、「気のせいではないの」、と答えたことがありますが、上記の聖句を見ると、それは間違いであったことが分かります。
その人にも、福音を語るのですが、その人は、福音の話になるとはぐらかすのです。
この人にとって、悪いことが自分の身に起こるのではないかと思うとそれが起こる、というのが一つの信仰になっているのかも知れません。
この人は、道徳的には、そう悪い人とは思えないのですが、不信心な人であったのです。
ヘブライ語の「ラーシャー」には、悪しき人、不信心な人、という意があります。
聖書の世界では、まことの神様を信じない人は、悪しき者、ということになることは確かなことです。
現代の日本においては、信仰を持つことも持たないことも、何を信じるかということも自由であり、それは悪とか善とかに分ける必要のない事柄である、と考えている人たちが多いと思います。しかし、その考え方は聖書とは異なります。

 「悪しき者の恐れることはその身に降りかかる」ということが、100%正しいと、聖書を読めば分かるグループの霊的生き物たちもいます。
 マルコ123-27に次のように記されています。
“23
ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。
24
ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
25
イエスは彼を叱って、
「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
26
すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
27
人々はみな驚いて、互いに論じ合った。
「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」2017)とあります。

 悪しき霊たちは、自分たちが裁かれること、そして御子イエスが裁き主であることを知っていたのです。さばきの定めのときに、汚れた霊は、「悪しき者の恐れることはその身に降りかかる」ということが起こることを知りながら生きているのです。

 人の場合でも、イエス様を信じていない人すなわち心にイエス様をお迎えしていない人は、死を恐れます。キリスト者の中には、パウロと同じように、肉体の死を喜ぶ人もいるでしょう。
パウロは言いました。
20・・・、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」{フィリピ(ピリピ)1章・新共同訳}と。

 話は変わりますが、
汚れた霊は、人に入り込むこともできます。
恐ろしいことですね。
しかし、主は、その悪しき霊を人から追い出すことができます。
しかし、悪しき霊を追い出された人が、イエス・キリスト様を心にお迎えしないと、即ち信じないと、更に悪いことが起こるのです。私もそのような人を見たことがあります。

 マタイ1243-45には次のように記されています。
“43
汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。・・・。」2017)とあります。

 24節後半には、正しき者には願い通りのことが与えられる。とあります。
「正しい人(者)」と訳されている語のヘブライ語原語は、「タアッヴァー」で、切望する人、正しい人、等の意があります、と前述しましたが、神のみ前において「正しき者」とは、まことの神を神と認め、イエス・キリスト様を救い主、主、と信じた者のことです。
1
テモテ316に「敬虔の奥義」という語が出て来ます。
敬虔の奥義とは、キリストを正しく(聖書に記されている通りに)信じることにその基があるのではないかと思います。
 1テモテ316を、
2017
は、だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。
「キリストは肉において現れ、
霊において義とされ、
御使いたちに見られ、
諸国の民の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。」と訳し、
 リビングバイブル旧版は、
神様を敬う生涯を送ることは、決して、なまやさしいものではない、と言われますが、まさにそのとおりです。
しかし、その解決はキリスト様のうちにあるのです。
キリストは人として地上に来られ、
その霊において汚れなく、
きよらかであることが証明され、
御使いたちに仕えられ、
諸国民の間に宣べ伝えられ、
至る所で信じられ、
再び栄光のうちに天に引き上げられたのです。と意訳しています。

 
「御使いたちに見られ」(2017)の「見る」と訳されている語のギリシア語原語は「オプタノマイ」で、第一義的には、じっと見る、凝視する、の意です。
リビングバイブルは、「御使いたちに仕えられ」と訳していますが、Strong辞書には、「仕える」の意がないようです。このところは、マタイ411bを基にして訳しているのかも知れません。私の想像ですが。

 正しい人の望むことはかなえられる2017)とあります。
正しい人は、主なる神様を信じる人です。
その人は、主の御言葉を信じます。
主の約束の御言葉は、必ず成就するのです(イザヤ5511)。

 ペテロの手紙には次のように記されています。
「主の言葉は永遠に立つ〔あるいは「いつまでも残る」(欄外注)〕」(1252017
「この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(262017)と。

<お祈り>
天のお父様。
決して失望させられることの無いイエス・キリスト様を信じさせて頂けましたことを感謝します。
あなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月20日 (日)

主の御言葉に信頼するキリスト者

 詩篇20篇には次のように記されています。
指揮者のために。ダビデの賛歌。
1
苦難の日に主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の御名があなたを高く上げますように。
2
主が聖所からあなたに助けを送りシオンからあなたを支えられますように。
3
あなたの穀物のささげ物をすべて心に留めあなたの全焼のささげ物を受け入れてくださいますように。セラ
4
あなたの心の望みを主がかなえてくださいますように。あなたのすべての計画を遂げさせてくださいますように。
5
私たちはあなたの勝利を喜び歌い私たちの神の御名により旗を高く掲げます。あなたの願いのすべてを主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が遂げさせてくださいますように。
6
今、私は知る。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、主に油注がれた者を救ってくださることを。右の御手の救いの御力をもって聖なる天からその者に答えてくださることを。
7
ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御名を呼び求める。
8
彼らは膝をつき倒れた。しかし私たちはまっすぐに立ち上がった。
9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、王をお救いください。私たちが呼ぶときに答えてください。2017(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は表題を1節としているので、2017訳とは1節ずつずれています)}

 詩篇20篇は王のための祈り、とりわけ第一義的には、ダビデ王のための祈りなのであろうと思います。

 新生したキリスト者について、1ペテロ29は次のように記しています。
2017
は、・・、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。・・・。と訳し、
新共同訳は、・・、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。・・・。と訳し、
聖書協会共同訳は、・・、あなたがたは選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。・・・。と訳しています。
下線部分のギリシア語は、以上のどのようにも訳せます。
キリスト者が、「王である祭司」と呼ばれたとしたら、キリストは、王の王、
キリスト者が、「王の系統を引く祭司」と呼ばれたとしたら、キリストは、王、
キリスト者が、「王の祭司」と呼ばれたとしたら、キリスト者はキリストにあって御父の祭司、あるいはキリストの祭司ということになるのではないかと思います。

 詩篇20篇は、王のための祈りですが、そのまま私たちにも当てはまる箇所があると思います。

 1節の前半部分には、“苦難の日に主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたにお答えになりますように。”とあります。
 詩篇5015には、
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。」(新改訳第三版)と記され、
 また、イエス様は、次のように約束されました。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ1413,14・新共同訳)とあります。
「わたしの名によって」と訳されている箇所を直訳すると、「私の名の中で」となりますから、それは1ヨハネ514の「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」(新共同訳)という聖句の下線部分を指していると思います。

 1節の後半部分には、ヤコブの神の御名があなたを高く上げますように。とあります。
キリスト者は、自分を誇りません。キリストを誇るのです。
しかし、キリスト者は高くあげられています。
エフェソ(エペソ)26には、“キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座につかせてくださいました。”(聖書協会共同訳)と記され、既に霊においては、この立場を持たせていただいており、体においては霊の体を持たせていただいた後にこの聖句は成就する内容ですが、主なる神様のご計画は、未だ未完了であっても必ず成就するので完了形(原文はアオリスト自制)で記されているのでしょう。

 3節には、“あなたの穀物のささげ物をすべて心に留めあなたの全焼のささげ物を受け入れてくださいますように。”とあります。
レビ記には、全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのいけにえとしてのささげ物、罪のきよめのささげ物等が記されていますが、それはイエス・キリストの予型であり、本体はイエス・キリストであったのです。
 キリスト者は、既にキリストのささげ物のゆえに、神に受け入れられた者です。
1
コリント130に、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。2017)と記されているとおりです。
 かくも大いなる恵みを与えられた私たちキリスト者は、御父と御子に自らをお捧げするようになるのが自然の成り行きです。
それ故、ローマ121には、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(2017)と記されています。

 6節には、“今私は知る。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が主に油注がれた者を救ってくださることを。右の御手の救いの御力をもって聖なる天からその者に答えてくださることを。”とあります。
 ダビデは、地上でのことを述べていると思いますが、私たちキリスト者は、多くの場合地上でも同じようにして頂けますが、それ以上に素晴らしいことは、天の御父の家へと導いてくださることです。
 「油注がれた者」を、文語訳は「受膏者」と訳しています。原語は「マーシーアハ(メシア)」で、anointed、すなわち「聖油を塗られた」の意になります。「油」は霊的には聖霊を指しています。
 エペソ113,14には、あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。(新共同訳)と記されています。
同じ個所を岩波訳は、このキリストにおいてあなたがたもまた真理の言葉を、あなたがたの救いの福音を聞いたとき、〔また〕このキリストにおいてあなたがたもまた〔その 真理の言葉、すなわち福音を〕信じたとき、あなたがたは約束〔されたところ〕の聖霊によって証印を押されたのだった。聖霊は私たちの〔受け取るべき全〕相続遺産の前払い額〔相当分〕であり、〔全相続遺産の〕取得という解放のため、神の栄光の称讃のためのものである。”と訳しています{〔 〕内は訳者の挿入です}。
 イエス様は次のように語られました。
わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ142,32017)と記されています。

 7節には、“ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御名を呼び求める。”(2017)とあります。

 人間の歴史は、戦争時、また戦争に備えて、武器を開発し、それを保持してきたことを教えてくれています。
もし、全能の神がみかたでなければ、強力な武器を持つに限ります。
そのようにして世界を滅亡させることができるほどの武器が地上に生産されました。
もし、原水爆のすべてを使用したら人類は滅亡することでしょう。
それ故、戦争反対に躍起になります。
それはそれでよく分かります。

 もう一つの道があります。
それは、キリスト・イエス様を信じる道です。
イエス様を信じた者は、肉体の死を超越します。
イエス様が、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ1125,26抜粋・2017)と語られたことを自分のものとしている人は、肉体の死を超越しているのです。
イエス様を信じた結果、神から生まれた霊(ヨハネ361ペテロ13)は、永遠です。
そのことを、御子であり主であるイエス様は教えてくれました。
肉体は死にますが、霊の体は、定めのとき(キリストの空中再臨のとき)に与えられるのです。肉体の死を経験する前に、キリストの空中再臨の時を迎えたキリスト者は、その時に肉の体から霊の体へと一瞬のうちに変えられるのです(1コリント1551,52、1テサロニケ416.17)。

 
キリスト者が、実際の戦時下にあって、キリストによる奇跡を見せていただいた実例はいくつもあります。
キリスト者だからこそ迫害を受けた人たちの実例も数多くあります。
主なる神様の御意志によって、一人一人に与えられたありようは様々でしょうが、いずれにしても、キリスト・イエス様を信じた人の本体である霊は永遠なのです。
体は霊の入れ物です。

 出エジプト記に幕屋についての記述があります。
幕屋は、至聖所、聖所、庭からできています。
至聖所は、神の霊の臨在の場所、聖所は、庭と至聖所の間にあります。
使徒ペテロは、自分の体を幕屋に譬えました。
2
ペテロ113,14には次のように記されています。
それを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせることを、私は地上の幕屋にいるかぎり、なすべきだと思っています。私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。2017)とあります。
幕屋を人に活用するとき、至聖所は、新生させていただいた霊と主の霊が一つとされているところ(1コリント617)であり、聖所は、たましいです。肉体は庭であり、また見える幕屋全体です。
イエス様は、十字架の上で肉体の死を迎える直前、御父に、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られたのです(ルカ2346)。
教会が誕生した後、最初の殉教者になったステパノが、肉体の死を迎えるときには、「主イエスよ、私の霊をお受けください。」(使徒7592017)と主イエス様に言ったのでした。
私たち新生したキリスト者の霊は永遠です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
戦争が起ころうと、生活が大変になろうと、私たちはいつもあなたに信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの真の命は既に保証されていますからありがとうございます。
世界規模で見ると、終末時には、次から次へと戦争が起こり、地震が起こり、飢饉が起こりますが、それらの苦難を通して、イエス・キリストのみが救い主であり、主である、と信じる人がおこされていきますように。
どれほど長生きしても、イエス様を信じなければ、その人の人生はただ罪を増し加えているだけであることを覚えます。
世界中のあなたの子どもたちがとりなしている人々を憐れんでくださり、まだ救われていない人のためには、聖霊様が臨んでくださいますようお願い申し上げます。
聖霊によれなければ、誰もイエスを主と言うことは出来ないのですから。
三一の主なる神様の御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月19日 (土)

神への聖別と神からの祝福

 創世記351-15の箇所には次のように記されています。
“1
神はヤコブに仰せられた。
「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
2
それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。
「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
4
彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
5
彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。
6
ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
7
彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。
8
リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それで、その木の名はアロン・バクテ〔「嘆きの樫の木」の意(筆者挿入)〕と呼ばれた。
9
ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
10
神は彼に仰せられた。
「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」
こうして神は彼の名をイスラエル〔「神は闘う」「神と闘う」「神のように統治する」等々の意(筆者挿入)〕と呼ばれた。
11
神はまた、彼に仰せられた。
「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」
13
神は彼に語ったその場所で、彼を離れて上って行かれた。
14
ヤコブは、神が自分に語られた場所に、柱を、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、さらにその上に油を注いだ。
15
ヤコブは、神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。2017

 7節に、“彼〔ヤコブ(筆者挿入)〕はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。”とあります。
「ベテル」は、「ベート(家)・エル(神)」で「神の家」の意です。
「エル・ベテル」は、「神の家の神」の意です。
それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。と記されている箇所は、創世記2810-22になります。
 創世記2813-15には、ヤハウェ(主)からヤコブへの次のような約束が記されています。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(2017)とありますが、ヤハウェ(主)がヤコブにこの様に約束したのは、創世記35章の記事の出来事から遡ること20年余になります。

 上記のような約束を与えられたとき、ヤコブはヤハウェ(主)に、誓願を立てたのです。
誓願の内容は、創世記2820-22に次のように記されています。
“20
ヤコブは誓願を立てた。
「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の神となり、22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」2017)とあります。
創世記2822節の「神の家」のヘブライ語原語は「ベート(orベイト) エロヒーム{エル(神)の複数形}」と記されています。

 ヤコブは、ラバンのもとを出てから後、そして兄エサウとも和解できた後、ヨルダン川東岸のスコテに自分の家を建てました(創世記2817)。そしてその後、シェケムに移動したのです。シェケムはヨルダン川の西にあります。
 創世記3317-20には次のように記されています。
“37
一方、ヤコブはスコテ〔「小屋」の意(筆者挿入)〕へ移動し、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その場所の名はスコテと呼ばれた。
 18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。
19
そして、天幕を張った野の一画を、シェケムの父ハモルの息子たちの手から百ケシタで買い取った。
20
彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。2017)とあります。
「エル・エロヘ・イスラエル」とは、「イスラエルの神、エル」の意です。

 ヤコブは、シェケムの地に祭壇を築いたのですが、ヤコブがヤハウェ(主)に対して立てた誓願は、ベテルにおいてであり、
「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、無事に父の家に帰らせてくださるなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家〔ベテル(筆者挿入)〕となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」(創世記2820-222017)というものでした。ベテルは、以前はルズという名の場所でした(創世記2819)。

 ヤコブは、誓願を果たしていなかったのです。
ヤコブは、ベテルにはいかず、シェケムに土地を買いました。
そこで何が起こったのでしょうか?
それは創世記34章に記されていました。
ディナの事件、シメオンとレビによる虐殺事件、その結果、ヤコブに引き起こされた恐怖等が創世記34章に記されています。

 そのような状況下で、ヤハウェ(主)がヤコブに声をかけてくださったのです。
「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」(創世記351)と。

 ヤコブは、ヤハウェ(主)の御言葉を聞き、ハッとしたのではないかと思います。
人間は約束したことを忘れることがありますが、神様は忘れません。
ヤコブは、主の御言葉で我に返り、自分と家族等を聖別しました。
創世記352-4には次のように記されています。
“2
それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。
「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
4
彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。とあります。

 主は、主に従ったヤコブを守られました。
5
節には、彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。と記されています。

私たちも、色々な折々に守られているのでしょう(ヘブル114)。多くの兄姉たちはそれを体験していることと思います。

 ヤコブは、ベテルに移動して祭壇を築きました。創世記356.7には次のように記されています。
“6
ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
7
彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。とあります。

 ベテルにおいて、ヤハウェ(主)はヤコブに次のような御言葉をくださいました。
創世記3510-12には次のように記されています。
“10
神は彼に仰せられた。
「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」
こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。
11
神はまた、彼に仰せられた。
「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」とあります。

 ヤコブは、ヤハウェ(主)から契約の御言葉を頂いた後、ささげものをし、誓願を果たしました。創世記3514には次のように記されています。
ヤコブは、神が自分に語られた場所に、柱を、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、さらにその上に油を注いだ。とあります。
ヤコブは、神へと自らを聖別したのです。ヤコブの献身でした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはヤコブを愛し、ヤコブを訓練し、ヤコブを導き、ヤコブを助け、ヤコブが献身するようにと導かれました。
私たちキリスト者に対しても同じように導いてくださっておられますから感謝します。
更に私たちへの約束はヤコブ以上のものでありますから何と感謝を申し上げたらよいのだろうかと思います。
感謝しつつ、みなをほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月18日 (金)

祈りについて2

 マタイ67には次のように記されています。
“7
また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません〔くどくどと述べてはならない(新共同訳)〕。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
8
ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。2017)とあります。

 8節の中に、「あなたがたの父は」というイエス様の御言葉があります。
「父」のギリシア語原語は「パティールorパテール」です。

 イエス様は、ご自身の父を、「あなたがたの父」と語っておられます。
御父は義なる神ですが、愛なる神でもあります。御父は、愛と義を併せ持っておられる方です。
「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」(1ヨハネ5142017)お方であり、霊の父です(ベブル:129

 イエス様の御父は、すべての人の父なのでしょうか?
イエス様は、イエス様が語られたお話を信じない人たちに対して、
神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです
わたしは神のもとから来てここにいるからです。
わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。
あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。
それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。
あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。
悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。
しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。
あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。
わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネ842-472017)と語っておられます。

 イエス様はご自身の語られた御言葉が真理であると聞くことのできない人は、神から出ている人ではない、と言われました。
逆に、イエス様が語られる御言葉を、「アーメン」と聞くことの出来る人は、神から即ち御父から出ている、とイエス様は語られたのです。

 新生させていただいた私たちにとって、御父は、霊の父です(ヘブル129)。
私たちの肉体の父は、肉の父です。
ヨハネ112.13を直訳している岩波訳は、“だが、彼を受け入れた人々、彼の名を信じる人々には、神の子供たちとなる権能を与えた。彼らは血〔統〕からでなく、肉〔なる人〕の意志からでもなく、人の意志からでもなく、神から生まれたのである。”と訳しています。
*〔 〕内は岩波訳訳者の挿入です。
ヨハネ33.6の岩波訳には次のように記されています。
“3
イエスは答えて彼に言った、「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」。
6
肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊である。とあります。

 それ故、新生したキリスト者は神の子どもです。
使徒ヨハネは、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに〔キリストの空中再臨時に(筆者挿入)〕、キリストに似た者になる〔霊の体を与えられる(筆者挿入)〕ことは知っています。キリストをありのままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」(1ヨハネ31-32017)と述べています。

 キリスト者は、神の子ども、すなわち御父の子どもであると共に、その性質の中に、「きよくなりたい」という思いを持っているなのです。

 御父から生まれたのではない人が、「天にいます私たちの父よ」と祈ることは出来ません。「至高の神様」と呼びかけることは可能でしょうが、残念なことに、主キリスト・イエス様を自分の救い主、また「主」と、信じないことには、至高の神様とかかわりを持つことができないのです。
パウロは、テモテへの手紙に、神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一でありそれは人としてのキリスト・イエスです252017)と記しました。

 御父が私たちを如何ほどに愛してくださったのか、ということを使徒ヨハネは次のように述べています。
7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです
9
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです
11
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
12
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(1ヨハネ4章・2017)と記されています。
 私たちを愛してくださっておられる霊の父ですから、私たちが、くどくどと祈らなくても、祈っている内容が御旨に叶うものであるならば、祈りを聞いてくださいますし、また私たちも、祈りが聞かれるという確信を持つことができるでしょう。
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。”(ヤコブ43・新共同訳)と記されています。
この箇所をリビングバイブルは、いくら願い求めても手に入らないのは、その目的や動機が間違っているからです。・・・。と訳しています。
ヒューマニズム的に良いと思えることでも、神様の御目的にかなわない祈りというものもあります。

 8節の後半部分には、“あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。”と記されています。 

 御父は、私たちの必要を知っているのだから、私たちは私たちの必要のために祈る必要はないのではないだろうか、と考える人があるいはいるかもしれません。
それについて、イエス様は、次のような原則を教えてくださいました。
「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ77a2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
永遠に存在しておられ、私たちの想像を絶する御力をお持ちでおられ、天地万物を造られ、あなたが語られた御言葉をすべて成就させてしまうという至高の神様を、私たちは、「私たちのお父様」、「私のお父様」、とお呼びすることが出来るようにしてくださり、またあなたに願い事までをもすることが出来るようにさせて頂けましたことを感謝します。
あなたの御旨に叶う祈りは必ず聞かれますから感謝します。
私たちの地上生活において、あなたが私たちに必要と認めてくださったものは与えて頂けますから感謝します。
御聖霊に祈りを教えられ、祈りを助けられ、御子であり主であるキリスト・イエス様の御名で祈ることができますことを感謝します。
願わくは、あなたに喜ばれる祈りをいつもお捧げすることができますようお導きください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月17日 (木)

人を富ませるのは主の祝福/ヤハウェ(主)の祝福があなたを成長させる

 箴言1022には次のように記されています。
“22
人を富ませるのは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祝福。人の苦労は何も増し加えない。2017)とあります。

 箴言1022を、
2017
は、人を富ませるのは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祝福。人の苦労は何も増し加えない。と訳し、
聖書協会共同訳は、主の祝福こそが人を豊かにし、人の労苦はそこに何も加えることができない。と訳し、
口語訳は、主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。と訳しています。

 旧約(旧契約)時代は、物質的な意味で、この箴言の聖句をイスラエル人にあてはめることが出来たでしょう。
それは、ヤハウェ(主)とイスラエルの契約の中に次のようなものがあったからです。
“1
もし、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
2
あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
3
あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
4
あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
5
あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
6
あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。
8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
9
あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守り主の道を歩むなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
10
地上のあらゆる民はあなたに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
11
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
12
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
13
私が今日あなたに命じる、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従い、守り行うなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。2017)と記されています。

 しかし新約(新契約)時代、箴言1022の聖句が、物質的な意味においては、キリスト者にあてはまるわけではありません。

 キリスト者に対しての祝福は霊的なものが第一になったからです(エペソ13)。
善き霊のお方すなわち三位一体の神様、と豊かな交わりを持っている人は、その人が地上に置かれている間、三一の神様以上に何かを求める必要がないからです。
三一の神様によって心が満たされるからです。そのような人は、物質的なことについては必要が満たされていればよいのです。
主は、地上生活における必要も、満たされると言われました。

 マタイ6章には次のようなイエス様の御言葉が記されています。
25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
26
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
27
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
28
なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30
今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
32
これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
33
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(2017)とあります。

 パウロは、「・・、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4192017)と述べています。

 箴言1022を、新約的に私訳すると、「主の祝福が人を〔霊的に(語句挿入)〕成長させor豊かにし、人or偶像は、そこに何も加えることができない。」となります。

 箴言1022の前半部分の、「富ませる」(2017)、「豊かにする」(聖書協会共同訳)、「成長させる」(私訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーシャル」で、以上のどの意味も持っています。

 1コリント31-9には次のような文章が記されています。
“1
兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人〔主を愛し主の霊に従って歩んでいる人(筆者挿入)〕に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子〔神の子どもとして誕生したけれどもまだ幼い人(筆者挿入)〕である人々に対するように語りました。
2
わたしはあなたがたに乳を飲ませて〔救いに関する基本的聖句のみを与えて(筆者挿入)〕、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすること〔神の僕(しもべ)として神の子どもたちを配慮し、また外に向けては福音を語り、霊的教会を建てあげていくとことに関係するような聖句を心に受け取ること(筆者挿入)〕ができなかったからです。いや、今でもできません。
3
相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人〔新生していない人(筆者挿入)〕として歩んでいる、ということになりはしませんか。
4
ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
5
アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
6
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です
7
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
8
植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります〔2コリント510、マタイ2514-23等参照(筆者挿入)〕。
9
わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。(新共同訳)とあります。

 箴言1022の後半部分を、
2017
は、人の苦労は何も増し加えない。と訳し、
聖書協会共同訳は、人の労苦はそこに何も加えることができない。と訳し、「人or偶像は、〔祝福を(筆者語句挿入)〕加えることができない。」(私訳)と訳すことも可能ではないかと思います。
「人」(2017、聖書協会共同訳)、「偶像」(私訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「エツェブ」で、どちらの意もあります。「エツェブ」の原義は、(土で作った)入れ物の意で、器、わん、杯の意であり、(土で作られた)人{たましい、霊の器としての「人」の意(土の器)}、etc.の意もあります。
偶像も土の成分で作られています。偶像には、陶製もあれば、土の成分としての金や銀等のものもあります。
偶像礼拝は悪霊礼拝です(1コリント1019.20)。
偶像には、人に崇められたい悪しき霊が住み着くのです。
悪しき霊は、霊的に成長させることはせず、霊的に堕落させます。しかし、悪しき霊は、人を、物質的、この世的な意味での成功者にすることが可能です。しかし、偶像礼拝者は、最後の審判で、火と硫黄の燃える池へ行くことになります(黙示録2011-15218)。
悪しき霊の首領はサタン(悪魔)で、大患難時代にこの世を統治する人に力を与えます(黙示録131-7)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの愛に包まれ、あなたから必要なものを与えられ、地上生涯を送れる恵みを与えてくださっておられますことを感謝します。
あなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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2022年3月16日 (水)

日々、御父と良き関係をもって歩むために

 詩篇1912-14には次のように記されています。
“12
だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。
どうか隠れた罪から私を解き放ってください。
13
あなたのしもべを、傲慢から守ってください。
それらが私を支配しないようにしてください。
そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。
14
私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、わが岩、わが贖い主よ。{新改訳2017(聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳は13-15節)}とあります。

 12節には、“だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。”(2017)とあります。
 この箇所を、
聖書協会共同訳は、誰が知らずに犯した過ちに気付くでしょうか。隠れた罪から私を解き放ってください。と訳し、
新共同訳は、知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。と訳しています。

 私たち人間は、知らずに犯した過ちや自分では気づいていない罪を持っているのが普通であろうと思います。
日々聖書を読み、人の忠告を真摯に受け取って熟考し、神である主と人に対してへりくだっているならば、知らずに犯した過ち、隠れた罪から、清めて頂くことができるのです。
 詩篇19篇は、ダビデの賛歌、と表題にありますが、同じダビデの賛歌の中に詩篇139篇があります。
詩篇13923,24には次のように記されています。
“23
神よ、私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。
24
私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。2017)とあります。

 詩篇は、旧契約(旧約)の中で記された詩です。
キリスト者は、自分には罪があることを認め、イエス・キリスト様の十字架上で流された血による贖い、すなわちイエス・キリスト様のその行為が自分の罪の赦しのためであると信じて罪赦され、また、イエス・キリスト様の復活を信じて、新生させて頂いた者です。
 関連聖句をいくつか下記します。
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(エペソ17・新共同訳)
神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。1ペテロ13抜粋・2017
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。(エペソ282017

 キリスト者は、主イエス・キリストを信じたことの故に、既に罪を赦され、救われているのです。それどころか、新生させていただけているのです。新生した者は神の子どもです。
 関連聖句をいくつか下記します。
あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(ローマ109,10,132017
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による(ローマ328・新共同訳)
「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ332017
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(ヨハネ36・新共同訳)
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。1ヨハネ31,22017

 地上のキリスト者は、霊、魂、体(肉体)で構成されています(1テサロニケ523)が、新生させていただいたのは、霊です(ヨハネ33,6)。魂は救われました(1ペテロ19)。肉体は救われるのではなく、霊の体に取り換えられるのです(1コリント1546,49-53)。
 先述していない関連聖句の一部を下記します。
あなたがたは、信仰の結果であるたましいの救いを得ている1ペテロ19抜粋、1字変更・2017
“46
最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体〔肉体(筆者挿入)〕があり、次いで霊の体があるのです。
49
わたしたちは、土からできたその人〔アダム(筆者挿入)〕の似姿となっているように、天に属するその人〔復活のキリスト(筆者挿入)〕の似姿にもなるのです。
50
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血〔肉体(筆者挿入)〕は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
51
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠り〔「肉体の眠り」。新生した霊は生き続けています{ヨハネ1126}(筆者挿入)〕につくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
52
最後のラッパ〔第7のラッパ{黙示録107}ではなく「神のラッパ」{1テサロニケ416}(筆者挿入)〕が鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。〔キリストの空中再臨の時に、霊の体が与えられます{1テサロニケ416,17}(筆者挿入)〕
53
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきもの〔肉体(筆者挿入)〕が死なないもの〔霊の体、天上の体(筆者挿入)〕を必ず着ることになります。(新共同訳)

 13節には、“あなたのしもべを傲慢〔「驕り(おごり)(新共同訳)」から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。”(2017)と記されています。

 「傲慢」の意についてデジタル大辞泉は、おごりたかぶって人を見くだすこと。また、そのさま。と述べています。
この世においての「傲慢」、「おごり高ぶり」の意は、人に対してですが、聖書はもっと大切なことを教えてくれています。
それは、第一に神に対して高ぶってはいけない、神に対して謙遜でなければいけないということです。
この心の姿勢が無いと聖書を正しく読むことが出来ません。

 北イスラエルのアッシリア捕囚やユダヤのバビロン捕囚はなぜ起きたのでしょうか?
それは、ヤハウェ(主)のみをまことの神として礼拝しなかったからです。
十戒(十の言葉)の初めの第一戒には、「わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト203抜粋・2017)と記されています。
旧約の歴史を見ると、これが如何程に重要であるのかが分かります。
新約(新契約)時代になってからは、「罪とは、わたし〔キリスト(筆者挿入)〕を信じないことです。」(ヨハネ169・リビングバイブル)ということが、重要なことであると私は考えます。
キリストを信じなければ、罪を赦されることはありませんし、またイエス・キリスト様を通して父なる神様を正しく知ることが出来るようになるからです。

 まことの神である三位一体の神に対してへりくだっている人は、神の御言葉に従いますから、人に対しても高慢にはなりません(1コリント134)。

 14
節には、私の口のことばと私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、わが岩、わが贖い主よ。2017)とあります。

 主キリスト様を信じて救われても、御父との関係をいつも良好に保つためには、主である神の御旨に従った歩みをすることが大切ですから、御旨に叶わない何かがあるときには、すぐにそれを告白し、きよめていただく必要があるのです。
 関連聖句をいくつか下記します。
人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。(マタイ6152017)・・・これは、「天にいます私たちの父よ。」(マタイ692017)と祈ることの出来る人たちに対して述べられている御言葉です。「天にいます私たちの父よ。」と祈れるのは神の子どもです。
霊の父と良好な関係を保つために、日々、主に点検していただき、聖別された歩みをしていきたいものだと思います。
罪を示されても次の聖句があるので大丈夫です。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。1ヨハネ192017)と記されています。
この箇所をリビングバイブル旧版は次のように意訳しています。
・・、もし自らの罪を神様に告白するなら、神様はまちがいなくそれを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。
〔なぜなら、キリスト様は、私たちの罪を帳消しにするために、死んでくださったからです。〕と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつもあなたの御旨に叶うように歩むことができますように。
罪、過ち等に気づいたらor気づかせていただいたら、直ちに、罪、過ちを告白し、あなたとの関係が遮断されることなく歩み続けることができますように。
御名を崇め感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月15日 (火)

正義感に基づく暴虐とその結果、及び主の約束の真実

 ヤコブの娘ディナがシェケムにレイプされたことに関連する内容が創世記341-7に次のように記されています。
レアがヤコブに産んだ娘ディナは、その土地の娘たちを訪ねようと出かけて行った。
2
すると、その土地の族長であるヒビ人ハモルの子シェケムが彼女を見て、これを捕らえ、これと寝て辱めた。
3
彼はヤコブの娘ディナに心を奪われ、この若い娘を愛し、彼女に優しく語りかけた。
4
シェケムは父のハモルに言った。
「この娘を私の妻にしてください。」
5
ヤコブは、シェケムが自分の娘ディナを汚したことを聞いた。息子たちは、そのとき、家畜を連れて野にいた。それでヤコブは、彼らが帰って来るまで黙っていた。
6
シェケムの父ハモルは、ヤコブと話し合うためにやって来た。
7
ヤコブの息子たちは野から帰って来て、このことを聞いた。息子たちは心を痛め、激しく怒った。シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥辱となることを行ったからである。このようなことは、してはならないことである。”(2017)とあります。

 シェケムはディナに、一目ぼれであったのかも知れません(1-3)。しかし、結婚への道を正しく通ることをせず、レイプという、してはならない行為を行ったのです。

 シェケムの父ハモルは、シェケムが、「ディナを自分の妻にしてください。」と熱心に願う(4)ので、ハモルはシェケムを伴い、ディナの父ヤコブに結婚の承諾を得るためにヤコブのもとへと赴きました。そして、ハモルとシェケムはヤコブに、ディナをシェケムの妻としてもらう条件を次のように提示しました。8-12節には次のように記されています。
“8
ハモルは彼らに語りかけた。
「私の息子シェケムは、心からあなたがたの娘さんを恋い慕っています。どうか娘さんを息子の嫁にしてください。9 私たちは互いに姻戚関係を結びましょう。あなたがたの娘さんを私たちに下さり、私たちの娘をあなたがたが迎えてください。10 そうして私たちとともに住んでください。この土地は、あなたがたの前に広がっています。ここに住み、自由に行き来し、ここに土地を得てください。」
11
シェケムは彼女の父や兄弟たちに言った。
「皆さんのご好意を得られるのなら、おっしゃる物を何でも差し上げます。12 どんなに高い花嫁料や贈り物であっても、私にお求めください。おっしゃるとおりに差し上げます。ですから、どうか、あの人を私の妻に下さい。」2017)とあります。

 シェケムがディナを熱く愛している様子がよく分かります(11,12)が、ディナの兄弟たち、すなわちヤコブの子どもたちはシェケムを赦すことが出来ませんでした。そして策略をめぐらし、シメオンとレビは暴虐を働いたのです。その時の様子が13-29節に次のように記されています。
“13
ヤコブの息子たちは、シェケムが自分たちの妹ディナを汚したので、シェケムとその父ハモルをだまそうとして、14 答えた。
「割礼を受けていない者に私たちの妹をやるような、そんなことは、私たちにはできません。それは、私たちにとって恥辱となることですから。
15
ただし、次の条件でなら同意しましょう。
もし、あなたがたの男たちがみな、割礼を受けて、私たちと同じようになるなら、16 私たちの娘たちをあなたがたに嫁がせ、あなたがたの娘たちを妻に迎えましょう。そうして私たちはともに住み、一つの民となりましょう。17 しかし、もし、あなたがたが私たちの言うことを聞かず、割礼を受けないなら、私たちは娘を連れてここを去ります。」
 18 彼らの言ったことは、ハモルと、ハモルの子シェケムの心にかなった。
19
この若者は、ためらわずにそれを実行した。
彼はヤコブの娘を愛していたからである。彼は父の家のだれよりも敬われていた。
20
ハモルとその子シェケムは自分たちの町の門に行き、町の人々に告げた。
21
「あの人たちは私たちに友好的だ。あの人たちをこの地に住まわせ、この地を自由に行き来させよう。この地は、彼らが来ても十分広いのだから。私たちは彼らの娘たちを妻に迎え、私たちの娘たちを彼らに嫁がせよう。
22
次の条件でなら、あの人たちは、私たちとともに住んで一つの民となることに同意すると言うのだ。それは、彼らが割礼を受けているように、私たちのすべての男たちが割礼を受けることだ。23 そうすれば、彼らの群れや財産、それにすべての彼らの家畜も、私たちのものになるではないか。さあ、彼らに同意しよう。そうすれば、彼らは私たちとともに住むことになる。」
24
その町の門に出入りする者はみな、ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする男たちはみな割礼を受けた。
 25 三日目になって、彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブの二人の息子、ディナの兄シメオンとレビが、それぞれ剣を取って難なくその町を襲い、すべての男たちを殺した。
26
彼らはハモルとその子シェケムを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出した。
27
ヤコブの息子たちは、刺し殺された者のところに来て、その町を略奪した。自分たちの妹が汚されたからである。
28
彼らは、その人たちの羊や牛やろば、それに町にあるもの、野にあるものを奪い、29 その人たちの全財産、幼子、妻たち、家にあるすべてのものを捕虜にしたり略奪したりした。2017)とあります。

 シェケムとディナの結婚前のシェケムの行為は神の御前に罪でした。
しかし、正義感からとはいえ、シメオンとレビの謀略、虐殺、略奪行為は、神の御前において赦されるものではありませんでした。

 この件に関して、ヤコブはシメオンとレビに、「困ったことをしたものだ」(30)と言いましたが、シメオンとレビは、「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいのですか。」(31)と答えたのです。そのことが30,31節に次のように記されています。
“30
それで、ヤコブはシメオンとレビに言った。
「あなたがたは私に困ったことをして、私をこの地の住民カナン人とペリジ人に憎まれるようにしてしまった。私は数では劣っている。彼らが一緒に集まって私を攻め、私を打つなら、私も家の者も根絶やしにされてしまうだろう。」
31
彼らは言った。
「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいのですか。」2017)とあります。

 神であるヤハウェ(主)は、アブラハム、イサク、ヤコブに、カナンの地の所有の約束をしてきました。ヤハウェ(主)は、約束を実行なさるお方です。しかし、罪は罪として対処なさいます。ヤハウェ(主)は、この二部族に他部族のように独立した嗣業の地(相続地)を与えませんでした。それについて、おもに士師記迄に記されているシメオン族に関することを聖書辞典から下記します。
 エジプト移住の時、シメオンには6人の子があった(創世記4610)。出エジプトの時、シメオン部族は59300人が軍務につくことのできる男子として数えられ、数の多さは12部族のうち第3番目であった(民数記123)。第2回目の人口調査では22200人で,最下位となっている(民数記2614)。約束の地におけるシメオン族の相続地はユダ族の割り当て地の中にあった(ヨシュア1991歴代誌42443)。1819の町々と,ベエル・シェバの重要な井戸を取りまいて散在している村々を含むこの要害は、ユダ族の援助によって保持された(士師記13,17)。(抜粋)とあります。

 レビ族の場合は、その後、良いこともあったので、祭司を補助する任を与えられましたが、他部族と同じようには嗣業の土地を与えられませんでした。
レビ部族について、聖書辞典は次のように述べています。
 レビ部族は、他の部族中最小で荒野での人口調査では、男子22千人くらいだった(民数記3392662)。荒野の生活の間中、レビ人たちは、幕屋の奉仕、契約の箱の運搬、聖所での奉仕に召集された。彼らは同じレビの子孫の中のアロン家の監督下に奉仕した(民数記1485335以下)。彼らは相続地を持たなかった(民数記1823)が、居住の町を与えられて住んだ(ヨシュア21章)。会見の幕屋における奉仕は、ゲルション人諸氏族、ケハテ諸氏族、メラリ諸氏族の3つに分けてなされた(民数記325,30,36)。彼らの任務は会見の幕屋の管理、保護、民衆からの隔離(民数記150541822)等であったが、彼ら自身は祭司によって監督され、聖所内に入ることはできなかった(民数記420)。レビ人に対するアロンの家系の優位性と機能の区別は、明確に規定されていた。レビ人はその奉仕の報酬として十分の一奉納物にあずかった(民数記1821)。(抜粋)とあります。

 シメオンとレビに対する神様のお取り扱いは、これで終わったのではありません。
神様は、アブラハム、イサク、ヤコブに嗣業の地(相続地)のことを約束したのですから。
キリストの千年王国の時代におけるイスラエルの12部族に対する土地の分割の預言はエゼキエル4713-4829に記されています。
その中には、シメオンもレビも独立して嗣業の地(相続地)を与えられています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、あなたの御約束を必ず実行なさるお方ですから御名を崇めます。
それは、私たちキリスト者に対してなされた約束も同じでありますから感謝します。
罪を犯した故に、あなたに叱責され、矯正されたからといって、あなたのもとを去ってしまうことがありませんように。
あなたの御旨にそぐわない部分を矯正されたときには、それを感謝し、益々あなたの御旨に叶うように整えられ、あなたに仕えていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月14日 (月)

祈りについて1

 マタイ65,6には次のように記されています。
“5
また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
6
あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。2017)とあります。

 まことの神であるお方に祈りをささげることは、「善」なることです。
5
節には、「祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。」とイエス様は言われました。
イエス様が偽善者と言われている人の祈りは、神様に祈っているのではなく、自分が信仰深い人であると他人に評価してもらうために、祈りというスタイルをとって行っているパフォーマンスであるのです。
当時の宗教家の中には、そのような人が少なからずいたのでしょうか、その時代に生きていなかったのでわかりませんが、そのようなことだろうと思います。
 偽善者の祈りは、神様に向かって祈っているのではないので、神様は応答してくれません。
 現代でも偽善の祈りにならないように気をつけなければいけない場合があります。それは、公禱(礼拝や祈祷会等で、代表して祈る祈り)の時の祈りです。
自分の祈りが、他の兄姉たちからどのように思われるだろうかと考えながら祈る、とか、あるいはまた人の耳に心地いい美辞麗句を並べて祈ろうとするというようなことです。
公祷の時には、兄姉たちの代表として神様に向かって心からの祈りをささげることが大切です。

 6節には、“あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。と記されています。

 この御言葉の通りに祈っている人もいます。
自分の部屋がない人は、頭から布や毛布をかぶって祈っていた人もいました。
恐らく御父はほほえましく思い祈りに応えたことでしょう。

 イエス様はどのようにしていたでしょうか?
 マルコ135には、朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。(新共同訳)と記されています。
 ゲツセマネでの祈りの時はどのようであったでしょうか
マタイ2636-39aには次のように記されています。
“36
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37
そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
38
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
39
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。2017)とあります。

 イエス様は、奥まった部屋に入って祈られてはいませんが、自分の心を外界から遮断して御父のみに向かって祈っていることが分かります。
 私は、マクドナルドの中で、キリスト者と思える初老の人が、一切周りを期にせずに長い時間ひたすら祈っている姿を見たことがあります。とても感激したことを覚えています。

 イエス様の十字架と復活の後の私たちキリスト者には、素晴らしい特権が与えられています。
イエス様は、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14232017)と語られ、また、「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。」(ヨハネ1415-17a2017)とも語られました。

 人が真実に主なる神様に祈る祈りを、主は、その人がどこで祈っても聞いてくださるのです。
御父は天の玉座におられ、その右に御子キリスト・イエス様がおられますが、霊とは不思議なもので、三一の主は、私たちの内に住んでくださっておられます。神は霊です(ヨハネ424)。大切なことは神と自分とのありようです。
ですから、他者(人や悪しき霊)や環境に左右されずに、御父に祈ることができればよいのだと思います。

 エペソ618aには、「絶え間なき祈りと願いとによって、どのような時でも霊にあって祈りなさい。」(岩波訳)と記されています。
「霊にあって」のギリシア語原語はεν πνευματι”(エン プニューマティ)で、「霊の中で」の意です。

 またイエス様は、「そしてなんであれ、あなたがたが私の名において何かを願うなら、それを私は行なう。 子において父が栄光を受けるために。あなたがたが私の名において私に何か願うことがあれば、この私が行なう。」(ヨハネ1413.14・岩波訳)とも語られました。
「名において」と訳されている語のギリシア語原語は、εν τω ονοματι”(エン トー オノマティ)で、「名の中で」の意です。
それ故、ヨハネは、別の言い方で、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(1ヨハネ5142017)と述べています。

 また、御聖霊は、祈りを助けてくださるお方です。
ローマ826,27には、同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。2017)と記されています。

 この箇所の「御霊」と訳されている語のギリシア語原語は単に「霊」ですが、ここは「神の霊」でしょう。
この箇所を岩波訳は、同様にして、霊もまた私たちの弱さを助けてくれる。なぜならば私たちは、しかるべき仕方で何を祈るべきかを知らないが、しかし霊自らが、言葉にならないうめきをもって、執り成しをしてくれるからである。〔人の(訳者挿入)〕心を探り知る方は、霊の思いが何であるのかを知っておられる。霊は、神に従って、聖なる者たちのために執り成しをしてくれるからである。と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
御父に、聖霊の助けを頂きながら、御子の御名の中で祈れる、大いなる恵みを与えられていますことを感謝します。
祈りの特権を無駄にすることなく祈らせて頂けますよう導き助けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月13日 (日)

聖いことば

 箴言1019-21には次のように記されています。
“19
ことば数が多いところには、背きがつきもの。自分の唇を制する者は賢い人。
20
正しい人の舌は選り抜きの銀。悪しき者の心は無価値に等しい。
21
正しい人の唇は多くの人を養い、愚か者は良識がないために死ぬ。2017)とあります。

 19節を、
2017
は、ことば数が多いところには、背きがつきもの。自分の唇を制する者は賢い人。と訳し、
聖書協会共同訳は、言葉数が多いときには背きを避けられず、唇を制すれば悟りを得る。と訳し、
新共同訳は、口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。と訳し、
フランシスコ会訳は、口数が多ければ罪を避けられない。しかし、口を慎しむ者は賢い人。と訳し、
リビングバイブルは、ことば数が多いと失敗します。配慮をもって話す人が、ほんとうに知恵ある人です。と訳しています。

 20節を、
2017
は、正しい人の舌は選り抜きの銀。悪しき者の心は無価値に等しい。と訳し、
聖書協会共同訳は、正しき者の舌は精選された銀、悪しき者の心は無に等しい。と訳し、
新共同訳は、神に従う人の舌は精選された銀。神に逆らう者の心は無に等しい。と訳し、
フランシスコ会訳は、正しい者の舌は混じり気のない銀、悪い者の心は屑にすぎない。と訳し、
リビングバイブルは、正しい人の言うことは聞く値打があります。愚か者の言うことは聞くだけ無駄です。と訳しています。

 21節を、
2017
は、正しい人の唇は多くの人を養い、愚か者は良識がないために死ぬ。と訳し、
聖書協会共同訳は、正しき者の唇は多くの人を養うが、無知な者は浅はかなため死を招く。と訳し、
新共同訳は、神に従う人の唇は多くの人を養う。無知な者は意志が弱くて死ぬ。と訳し、
フランシスコ会訳は、正しい者の唇は多くの人を養う。しかし、愚か者は思慮に欠けているので死ぬ。と訳し、
リビングバイブルは、神を信じる正しい人は、有益なことを語り、かたくなに信じない者は、何もわからないまま死んでいきます。と訳しています。

 イエス様は、公生涯の間、多くの人々に実に多くの言葉を語ったことであろうと思います。
イエス様は、ご自身を指して、「私は真理です。」(ヨハネ146)と語られましたから、常に真理を語ったと思います。
 イエス様の公生涯の間、生活を共にしたペテロは、イエス様について、「〔キリストは(筆者挿入)〕・・・模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、」(2ペテロ221-23抜粋・2017)と述べています。

 パウロは、私はキリストに倣う者である、と語りました(1コリント111)。

 たましいが完全に聖くされないと模範であるイエス様のようにはならないでしょう。
自分の力で自分のたましいを聖くすることは出来ませんが、先ずは、聖くなりたいという強い、かつ継続した願いがなければ、地上において聖くされることもないでしょう。

 天におられるイエス様のもとに引き上げられた人は、誰でも無意識に義なる行いをすることが出来るようになります。
黙示録198に、“花嫁〔霊の教会を形成しているキりスト者の総体(筆者挿入)〕は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。”(2017)と記されていますから。

 しかし主の願いは、キリスト者が地上に置かれているときも、聖く歩むことです。
ペテロは次のように述べています。
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。1ペテロ115,16・新共同訳)とあります。

 パウロは、エフェソ(エペソ)の信徒への手紙429,30に次のように記しました。
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。(新共同訳)とあります。

 わたし自身も、言葉についてはいくたび祈ってきたか分かりません。
しかしまだ成就されていません。
私は未だ相当に未熟な者ですが、既に天に帰った一人の敬愛するあるキリスト者は、少なくとも私の前で、言葉の失敗を見せたことがありませんでした。
また認知症になってしまったあるキリスト者がいました。その方も認知症になった後でも、私の前で、罪と思える言葉を発したのを聞いたことがありません。そのような人がいたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私の心の思い、私の口の言葉を、霊のお父様が、いつもニコニコして聞いてくださることができますようきよめてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私の口が語ることと心の思いとが御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。」{詩篇1915・聖書協会共同訳(新改訳、口語訳は14節)}

2022年3月12日 (土)

主の御旨に従って歩めば大きな報いがある

 詩篇199-12には次のように記されています。
“9
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の諭しはまっすぐで、心を喜ばせ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の戒めは純粋で、目を光り輝かせる。
10
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への畏れは清く、いつまでも続く。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の裁きは真実で、ことごとく正しい。
11
 金よりも、あまたの純金よりも好ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
12
 あなたの僕もこれらによって教えを受けました。
これらを守るとき報いは大きい。(聖書協会共同訳)とあります。

 同じ個所を2017は次のように記しています。
“8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の仰せは清らかで、人の目を明るくする。
9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕からの恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
10
それらは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。
11
あなたのしもべも、それらにより戒めを受け、それを守れば、大きな報いがあります。とあります。
(聖書協会共同訳は、2017の表題を1節としているので、節が一つずつずれています。)

 “ヤハウェ(主)の戒めは真っ直ぐで”(8節・2017
ヤハウェ(主)の諭(さと)しはまっすぐで9節・聖書協会共同訳)
と記されている中の「戒め」、「諭し」と訳されている語のヘブライ語原語は「ピックド」で、任命された、指定された、約束の、の意があり、その他、法令、法規、命令、(神の)掟、・・等々の意があります。

 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせとありますが、救われる前の人は、主のご命令(教え)のすべてを喜べるというわけではないでしょう。
主に救われて、更に心がきよめられて、それから、ヤハウェ(主)の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせる、となっていくのでしょう。

心がきよめられる前は、主の戒めによって、心が痛くなることもしばしばあります。それは健全なことです。
心に痛みを覚える個所を、主に告白し、主の御旨にかなうように変えていただくことが大切です。
主は、主が愛する者を主の御旨に叶うように整えようとなさいますから、主の御救いにあずかっても、最初のうちは、心の痛むことが多いものです。

 主によって救われた後、真実に主の御前にあって、主の御取り扱いを受け、早く整えていただいた方が、その後の信仰生活を楽しく過ごすことができます。
そのような人は、8-10節の、
“8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の仰せは清らかで、人の目を明るくする。
9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕からの恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。
〔主{ヤハウェ(筆者挿入)}への畏れは清く、いつまでも続く。(聖書協会共同訳)〕
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
10
それらは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。2017)という聖句に対して、「アーメン。」ということができるでしょう。

 11節には、あなたのしもべも、それらにより戒めを受け、それを守れば、大きな報いがあります。2017)とあります。
 詩篇19篇は、ダビデの詩、と表題にあります。
旧約時代、イスラエルは神であるヤハウェ(主)と契約を結びました。
その中に祝福と呪いの契約があります。
申命記281-14には、主との契約を守った場合の報い(祝福)が次のように記されています。
“1
もし、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
2
あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
3
あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
4
あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
5
あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
6
あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
9
あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守り主の道を歩むなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
10
地上のあらゆる民はあなたに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
11
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
12
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
13
私が今日あなたに命じる、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従い、守り行うなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。2017)とあります。

 旧約(旧契約)と新約(新契約)では、神からの祝福という本質は変わりませんが、表面上は異なるところが出て来ます。
イエス・キリスト様は、旧契約を履行し、贖いを成就されたのです。
そして、新生したキリスト者は、キリストの内に置かれているのです(1コリント130)。
キリストの内に置かれているキリスト者は、程度の差はありますが、みな迫害を受けるのです(2テモテ312)。
また経済的に大金持ちになるわけでもありません。
物質生活における神様の約束は、必要を満たしてくださるというものです(ピリピ4191テモテ68、ヘブル135)。キリスト者の中には、分け与える賜物(ローマ128)を与えられて金銭的に大いに豊かになる人もいるでしょうが、そのような人は数少ないでしょう。
新契約のすばらしい祝福は霊的なものです。
エペソ13(抜粋)には、神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。2017)と記されています。
ですから、私たちは、キリストにあって霊的祝福を大いに享受することができるのです。
物やお金、この世の地位や権力等を約束してくれたのではないのです。
ダビデは旧契約の人でしたから、王となり、財産はどんどん増加し、自国のみならず周辺諸国にまで権力をふるうことが出来ました。
新契約の私たちは、キリストにあって、敵(悪魔悪霊)に対して権威を持ち、敵に対してはキリストにあって王として振る舞うことができます。財産について言えば、この世の財産ではなく、霊的真理を豊かに受け取ることができるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいましたからありがとうございます。
また、地上の生活において必要な物は、あなたが備えてくださいますから感謝します。
私たちは、あなたに信頼し続けて歩むことが大切であることを覚えます。
益々、あなたを愛し、あなたに従い、あなたを賛美しながら歩む者となさしめてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月11日 (金)

62-9353-92 ジグシリンダCシリーズ(低速仕様) T-CDAS12X20-B-ZE235B1

 創世記32,33章には、ヤコブとヤコブの兄エサウの再会の記事が記されています。
少し話を戻します。
ヤコブは、父イサクをだまし、兄エサウをだましました(創世記2714-40)。
ヤコブがそのようにしたのは母リベカの入れ知恵でした(創世記275-14)。

弟ヤコブに騙された兄エサウは、父が死んだらヤコブを殺そうと決心しました(創世記2741)。

エサウがヤコブを殺す思いを持っていることを知った母リベカは、夫イサクを言いくるめ、ヤコブをリベカの兄ラバンのもとへと逃亡させました(創世記2742-285)。

ヤコブがラバンのもとへ行く途中、ヤコブに、ヤハウェ(主)が夢の中に現れてくださり、ヤコブは、ヤハウェ(主)から、「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫〔単数形、キリストを指す(筆者挿入)〕によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記2813-15)という御言葉を頂きました。

ヤコブはラバンのもとで20年間騙されながらラバンに仕えました。その間にラバンの娘である、姉レアと、レアの妹である大好きなラケルの二人と結婚し、二人の妻と二人の妻の女奴隷(ジルパとビルハ)から、聖書に名が記されているところによると12人の息子と一人の娘を与えられました(創世記291-30243413516-18)。

ヤコブがラバンのもとに逃れてから、20年以上が経ったある日、ヤハウェ(主)はヤコブに、「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」(創世記313)と語られました。

ヤコブがラバンのもとにいた20年間の間、ヤコブには、楽しいこと、嬉しいこと、心を痛めたこと、辛かったこと、騙され続けたことなど、色々なことがありました。
これらはヤコブに対するヤハウェ(主)のレッスンであったのでしょう。

ヤコブは、ヤハウェ(主)が、「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」(創世記313)と語ってくださったので、故郷に帰ることにしたのですが、ヤコブは、ヤハウェ(主)の御言葉を、信じきれたようではありませんでした。
ヤハウェ(主)のどの御言葉を信じきることが出来なかったのでしょうか?
それは、20年前の、「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記2815)という御言葉と、創世記313cの「わたしは、あなたとともにいる。」という御言葉でした。
いざラバンのもとを出た後、ラバンは一族の者たちを引き連れヤコブを追いかけ、ヤコブに追いつきました。普通であれば、ヤコブは捕らえられ、引き戻されて働かされたことでしょう。しかし、ラバンへのヤハウェ(主)の関与があり、ヤコブは守られたのでした。ヤハウェ(主)は約束(契約)を守るお方です(創世記3122-29)。

ヤコブは、ラバンから守ってくださったヤハウェ(主)に、すぐに感謝したとは記されていません。ヤハウェ(主)に感謝していれば、次の問題に対する主への信頼も増していたことでしょう。

ラバンとの別れの後、今度は、兄エサウに対する恐れにとりつかれました。
ヤハウェ(主)が、「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記2815)と語られた御言葉と、創世記313cの「わたしは、あなたとともにいる。」と語られた御言葉にヤコブが信頼しきれなかったからです。

ヤハウェ(主)は約束を守る全能の神です(創世記171)。
ヤハウェ(主)の語られた約束の御言葉を信じることは、ヤハウェ(主)を信じることです。

キリスト者も主の語られた御言葉に信頼し、主に従わないときには、不安を生じ、敵(悪魔悪霊)の攻撃に対処できなくなります。

ヤコブは、兄のエサウが400人を引き連れてヤコブの方に向かってきている、という知らせを受けたとき、ヤコブは極度の不安に襲われました。そして、直ちにヤハウェ(主)に祈った、というのではなく、肉的な考えで対処しようと策略をめぐらしました(創世記323-8)。

しかしその後、ヤコブはヤハウェ(主)に、ヤハウェ(主)の約束を持ち出して、祈りました。
「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主よ。私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。あなたは、かつて言われました。『わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を、多くて数えきれない海の砂のようにする』と。」(創世記329-122017)と記されています。

ヤコブは、ヤハウェ(主)に祈った後にも、ヤハウェ(主)に信頼しきれませんでした。それ故、肉的に考えた方法によって兄エサウに取り入ろうとしました(創世記3213-23)。

肉的な方法で対処するという行動をとった後にも、ヤコブは不安であり、ヤコブは祈りの格闘をしたのです。その結果、ヤコブの足は少し不自由にされました。ヤコブは足を引きずって歩くようになったのです。(創世記3224-31)。

このようになると、もう自分で戦うことも、敵から逃げることも出来ません。主により頼むしかできないのです。
しかしそれは大変な祝福でした。主により頼みつつ歩むことしかできないからです。

話が飛びますが、
パウロは、自分の弱さが取り除かれるようにと熱心に祈りました。しかし、その祈りは答えられませんでした。
しかしパウロは、主から、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント1292017)と言われたのでした。

ヤコブの兄エサウが、ヤコブに再開した時、ヤコブを殺そうとは考えていませんでした。
そのようなエサウの思いと感情の変化は、エサウ自身によるのか、ヤハウェ(主)がエサウに働いてくださったからなのかは、聖書に記されてはいませんが、私の考えによると、ヤハウェ(主)がエサウを財的に祝福したからであろうと思います。

ヤハウェ(主)は、「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記2815)という御言葉を守られたのです。

社会情勢がどうなろうと、自分の環境がどうなろうと、主により頼む者は心配する必要がないのです。
主は約束を守るお方だからです。
命について言えば、主は、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)と語られました。
キリスト者の本体は、新生した霊であり、魂もイエス様を信じたときに救われています(ヨハネ33,61ペテロ13、使徒7592ペテロ1141ペテロ19)。
地上における生活には、肉体の養いもありますが、肉体にしろ、霊にしろ、主なる神は必要を満たしてくださるお方です(ピリピ419)。
(聖書箇所の節について、聖書により異なる箇所があります。ここでの章節は2017によります。)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたに信頼し、あなたの御言葉に信頼し続けて歩む者であらせてください。
これからの時代、世は平安を失いますが、あなたを愛し、あなたに信頼し、主にある兄姉を愛する者には、平安が約束されていますから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月10日 (木)

偽善者と善行

 マタイ61-4には次のように記されています。
“1
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。
そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。
2
ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
3
あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
4
あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。2017)とあります。

 1節の「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」(2017)という訳を、
岩波訳は、「人々に見せようとして、あなたたちの義をその前でなさぬように用心せよ。」と訳し、
聖書協会共同訳は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と訳し、欄外に「善行をしないように」の箇所の直訳として、「自分の義を行わないように」と記しています。

 善行(義なる行い)は個々にあげれば色々とあるでしょうが、1節の善行についてイエス様は、時の宗教指導者たちを念頭において、「施し」(2)、「祈り」(5)、断食(16)について語りました。

 2節の「偽善者」と訳されている語のギリシア語原語は「ヒュポクリティース」で、(あるキャラクターを演じているもとにある)役者、の意があり、またdissembler(その人が、その人 の本当の気持ちあるいは動機を隠すために、自分のものではない信念や意見を公言する人)の意にも用いられ、hypocrite(偽善者)の意にも用いられます。

 3節には、“あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。”とあります。
キリスト者の中には、この聖句で困難を覚える人がいるようです。
また、4節には、“あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。”とあるので、施しをするときには、こそこそ隠れてしなければいけないと考えてしまうキリスト者もいるようです。

 2-4節の「施し」に関する解説と勧めをBible navi は次のように述べています。
「偽善者」という語は、良いことをしようとするが欠点のある人々には当てはまらない。ここでは、思いやりや真の配慮からでなく、個人的利益や評判のためなど不誠実な理由で良い行いをする人々を言っている。偽善者は、自分をよく見せるために人に何かを言うが、心の中では全く違うことを信じている。人々から集める注目が彼らの唯一の報いである。皮肉にも、誠実な信仰を持ち、神と人とに対する信の愛から良い行いをし、お返しを期待しない人々は、神からはるかに大きな報いを受けるのである。
 認められ称賛されるとき、親切な行為は容易である。動悸が利己的でないために、報いのことは考えず、良い行いを黙って、ひそかに行うべきである。もの惜しみのなさ、祈り、断食、の3つの領域で動機を確かめるべきとイエスは言われる。それらは自己中心ではなく神中心で、自分ではなく神をよく見せるために行われるべきである。神が約束される報いは必ずしも物質的あるいは一時的ではなく、霊的あるいは永遠のものかもしれない。そして、〔神が約束される報いは、(筆者挿入)〕報いや人からの称賛を得るために施し、祈り、断食する人には与えられない。次に親切な行いをするときは、誰にも気づかれなくても私はこれを行うか、と問うてみよう。
 右手がしていることを左手に知らせるなというのは、神や人に献げる動機の純粋さを教えている。見返りがあれば、不純な動機で与えること、誰かのために何かをすることは容易である。しかし、信仰者は、悪巧みを避け、献げることの喜びのゆえに、神の愛への応答として献げるべきである。とあります。

 善行は、その人の心が主にあって良きものであるので自然に出てくる場合も多いでしょう。それ故、その人が行った善行をその人が覚えていないということもあるでしょう。
今日の聖書箇所と100%イコールというわけではありませんが、マタイ2531-46に次のようなイエス様のお話が記されています。
“31
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
32
そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。
34
そこで、王は右側にいる人たちに言う。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
37
すると、正しい人たちが王に答える。
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40
そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟〔キリスト者{ローマ829}(筆者挿入)〕であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 マタイ1042には、「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」(2017)というイエス様の御言葉が記されています。

キリスト者は、善行によって救われたのではなく、救われたので善行を行うように変えられた人たちです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたに導かれるままに、あなたが、善い、ということを、自然に行っていく者として整えて下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月 9日 (水)

人はどのように生きたら良いのだろう

 箴言1018には、
憎しみを隠す者は偽りの唇を持ち、
そしりを口に出す者は愚かな者である。2017)と記されています。

 ほとんどの人は、その場その場を取り持つために、自分の思いや感情、意志とは異なる言葉を語る場合がありますし、自分にとって耐えきれないような嫌な思いをさせられたらそしるものです。

 3年半の間、イエス様と地上生涯を共にしたペテロは次のように証言しています。
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
23
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
24
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(1ペテロ2章・2017)と。

 ルカは、キリストの十字架の場面を次のように記しています。
“32
ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。
33
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。〔十字架を横にした状態で、手と足は太い釘で木に打ちつけられ、その後、地面に立てられたのです。ですから肉も裂かれました。(筆者挿入)〕
34
そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
35
民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。
「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36
兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37
「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38
「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、
「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40
すると、もう一人が彼をたしなめて言った。
「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42
そして言った。
「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43
イエスは彼に言われた。
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
44
さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
45
太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
46
イエスは大声で叫ばれた。
「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」
こう言って、息を引き取られた。
47
百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、
「本当にこの方は正しい人であった」と言った。
48
また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。2017)とあります。

 肉体を纏った御子イエス様は、極限状態に置かれても憎しみの言葉を発することなく、そしりの言葉を発することなく、恵みの言葉を発したお方でした。

 キリスト教会の最初の殉教者ステパノの最後も素晴らしいものでした。
使徒754-60には次のように記されています。
“54
人々はこれ〔ステパノの説教(筆者挿入)〕を聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
55
しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
56
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
57
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
58
そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
59
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。
「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
60
そして、ひざまずいて大声で叫んだ。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」
こう言って、彼は眠りについた。2017)とあります。

 ステパノの場合は、御子イエス様とは異なり、罪の性質をもって生まれてきた人でした。ステパノは、ある時に、罪を悔い改め、信仰から信仰へと神の恵みによって成長させていただき、主の御旨に従った働きをした後、天に召された人でした。
 ステパノは、パウロの言葉を借りて言えば、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰〔「神の子の信仰」とも訳せます(筆者挿入)〕によるものです。」(ガラテヤ219,20・新共同訳)というようなあり様で生活していたのではないかと思います。

 人は、全員がアダムの子孫です。
アダムの堕罪の故に、アダムの種から生まれた人は、罪の性質を持って誕生してきたのです。
ダビデは、自分が罪を犯した後、それを強く感じたことと思います。
「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました。」(詩篇5152017)と述べていますから。
 パウロは、人に罪と死が入って来た経緯を次のように記しています。
こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった・・(ローマ5122017)と。

 ローマ129-31に罪のリストの一部が次のように記されています。
“29
彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、30 人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、31 浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。2017)とあります。
 またガラテヤ519-21にも罪のリストの一部が次のように記されています。
“19
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。2017)と。

 すべての人がアダムの子孫ですから、罪の性質を持って生まれ、教えられなくても罪を犯します。犯す罪のタイプは個々人で異なるかも知れませんが、何かしらの罪々を犯すのです。

 今日の箴言の聖句は、憎しみを隠す者は偽りの唇を持ち、そしりを口に出す者は愚かな者である。2017)という聖句でした。
憎しみを持たず、そしりをいう必要のない心を神であられる主から与えていただかない限り不可能なことです。

 憎しみを持たずに愛の心で歩み続けることが出来たらなんとすばらしいことでしょう。
エペソ21-10には次のように記されています。
“1
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子ら〔まことの神に従わない人々(筆者挿入)〕の中に今も働いている霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。
3
私たちもみな、不従順の子ら〔まことの神に従わない人々(筆者挿入)〕の中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り〔神の怒り(筆者挿入)〕を受けるべき子らでした。
4
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた〔罪{神の御旨に反する思い感情意志言動}の故に神に対して死んでいた(筆者挿入)〕私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
6
神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
7
それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
8
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物〔ギフト(筆者挿入)〕です。
9
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主と共に歩み続けることによって、主が私たちをあなたにふさわしくお整え下さいますからありがとうございます。
今日も主と共に歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月 8日 (火)

ヤハウェ(主)の教えは完全

 詩篇197には次のように記されています。
7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。”(2017)とあります。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、・・等は、今日の箇所を8節としています。)

 7節の冒頭の部分には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のおしえは完全で”(2017)とあります。
2017
が「おしえ」と訳した箇所を、口語訳は「おきて」と訳し、新共同訳、聖書協会共同訳は「律法」と訳しています。
「おしえ」、「おきて」、「律法」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーラー」で、教え、法令の意があり、その他、十戒、モーセ五書、律法の意でも用いられます。

 イエス様は、「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(2017)と語られ、
また、「聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ539抜粋・新共同訳)と語られ、リビングバイブル旧版は、「聖書は、わたしを指し示しているのです。」と訳しています。
イエス様が、ここで「聖書」と言っているのは旧約聖書のことです。
新約聖書は、イエス様の復活後に弟子たちによって記されたのですから。

 モーセ五書の中には、信仰によって義と認められたアブラハムの例も記されています。
 創世記151-6には次のように記されています。
“1
これらの出来事の後、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
2
アブラムは言った。「神、主よ、〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
3
さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」
4
すると見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
6
アブラムは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を信じた。それで、それが彼の義と認められた2017)とあります。

 人は、アブラハムのように、先ず神を信じること、神を信じたことの故に、主の恵みによって、主の仰せを守ることが出来るようにされていくのです。

 生まれながらの人間、すなわち新生していない人は、神の法令即ち律法を自力で守ることは出来ません。それは、すべての人は堕罪したアダムの子孫だからです。
 ローマ512(抜粋)には、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた(口語訳)と記され、
ローマ310bには、義人はいない。一人もいない。2017)と記され、生まれながらの人間、すなわち新生していない人間の中には、一人も主の教えを守り切ることの出来る人はいないのです。それは、人の内に「罪」が住んでいるからです。
 ローマ714-23には、罪が人の内に住んでいるということが、次のように記されています。
“14
わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
15
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
16
もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
17
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
18
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
19
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
20
もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
21
それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
22
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。(新共同訳)
 
 ローマ7章のこの文章は、新生したパウロの証しです。
なぜ新生しているかというと、14節に「わたしは肉の人であり」と述べ、22節に「内なる人」としては神の律法を喜んでいますと述べているからです。
同じころに記されたパウロの手紙に、コリント信徒への手紙があります。
その中で、パウロは、人について3分類し、次のように記しています。
“1
兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人〔内に住まわれる主の霊によって歩んでいる人(筆者挿入)〕に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々〔新生しているけれども霊によってではなく肉の性質に基づいて歩んでいる人(筆者挿入)〕に対するように語りました。
2
わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人〔新生していない人(筆者挿入)〕として歩んでいる、ということになりはしませんか。1コリント3章・新共同訳)とあります。

 7節前半部分には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、”(2017)とあります。
「たましい」と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ」です。
「生き返る」と訳されている語のヘブライ語原語は「シューブ」で、Strong辞書によると、第一義的には、「turn back」です。逆戻りすること、即ち、神様に背を向けて歩んでいた状態から、向きを変えて、神様を前にして歩むこと、の意になると思います。即ち回心です。魂が回心することによって、神によって霊は新たに生まれるのです。魂は、新しく生まれるのではありません。魂は救われるのです(1ペテロ19)。霊は新生します。
ヨハネ3章には次のように記されています。
“3
イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく〔原語は「アーメン、アーメン」(筆者挿入)〕。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4
ニコデモは言った。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく〔原語は「アーメン、アーメン」(筆者挿入)〕。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である(新共同訳)とあります。
3
節の「新たに」と訳されている語のギリシア語原語は「アノーセン」で、上から、第一番目から、新たに、等の意があります。
フランシスコ会訳は、3節を イエスは答えて仰せになった、「よくよくあなたに言っておく。人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」。”と訳しています。
 ペテロは、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」(1ペテロ13抜粋・2017)と述べていますが、「私たちを新しく生まれさせ」というのは霊について述べています。

 ヤハウェ(主)の教えは完全であり、正しく素直に読む魂を回心させてくださるのです。

 7節の後半部分には、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。”(2017)とあります。
2017
が「証し」と訳した箇所を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、「定め」と訳しています。
ここに使われているヘブライ語原語は「エードゥート」で、あかし、証言、の意ですが、原文は、「エードゥート ヤハウェ」となっているので、この箇所も「神の教訓、十戒、聖書」という意になると思います。

 この箇所を聖書協会共同訳は、主の定めはまことで、無知な者を賢くする。と訳しています。
聖書は、私のように霊的に無知である者に教育を施してくださいました。
詩聖は、「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩篇119130・新共同訳)と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
聖書を与えてくださり感謝します。
聖書を読むとき御聖霊が教えてくださいますからありがとうございます。
あなたの御名を崇め感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月 7日 (月)

まことの神であるヤハウェ(主)はご自身のご計画を実行されていく

  ヤハウェ(主)は、「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」(創世記313・新共同訳)と語られました。

 神であるヤハウェ(主)のご計画は、天地創造以前からのものです{エフェソ(エペソ)14}。
エフェソ(エペソ)14には、“天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。”(新共同訳)と記されています。
またローマ829,30には、“29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
30
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(新共同訳)と記されています。
更に愛の関係においては、キリスト者の総体即ち霊的な教会を主キリスト・イエス様の花嫁としたのです(エペソ531,32)。
地上においては、未だ、花婿と花嫁の関係は、霊においてのみです(1コリント617)が、霊の体を与えられ後の婚宴の儀がもたれた後は、全的に御子イエス様と霊的教会は夫と妻の関係になります(黙示録196-9)。
そして、御父と御子と御子の花嫁は、新エルサレムを形成するのです(黙示録219-23)。

 挿入部分が多く入ってしまいました、話を元に戻します。
ヤコブへの約束は、アブラム(後にアブラハム)に端を発します。
その初めは、
 創世記121-3に次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」2017)というものでした。
 次の約束は、創世記15章に次のように記されています。
“1
これらの出来事の後、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。
「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
2
アブラムは言った。
「神、主よ〔ヘブライ語の原語は「アドナイ・ヤハウェ」で主ヤハウェ(筆者挿入)〕、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
3
さらに、アブラムは言った。
「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」
4
すると見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばが彼に臨んだ。
「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。
5
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
6
アブラムは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を信じた。それで、それが彼の義と認められた。
7
主は彼に言われた。
わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。」
8
アブラムは言った。「神、主よ〔「アドナイ・ヤハウェ」(筆者挿入)〕。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」
9
すると主は彼に言われた。
「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」
10
彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。11 猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。12 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。
13
主はアブラムに言われた。
「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国〔エジプト(筆者挿入)〕を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。15 あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。16 そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」
17
日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。
18
その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」2017)とあります。
 更にヤハウェ(主)は、アブラハムと契約を結んでいきます。創世記171-14に次のように記されています。
“1
さて、アブラムが九十九歳のとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに現れ、こう言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」
3
アブラムはひれ伏した。神は彼にこう告げられた。
4
「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。5 あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。6 わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる8 わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。
9
また神はアブラハムに仰せられた。
「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。
10
次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。13 あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」2017)とあります。

 アブラハムへの次の代の契約は、イザクに対するものでした。創世記1715-21に次のように記されています。
“15
また神はアブラハムに仰せられた。
「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。16 わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」
17
アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。
「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
18
そして、アブラハムは神に言った。
「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」
19
神は仰せられた。
いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、子孫に富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。21 しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。」2017)とあります。

 アブラハムから3代目のヤコブに、ヤハウェ(主)は次のような約束を与えました。
創世記2813-15には次のように記されています。
“13
そして、見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がその上に立って、こう言われた。
「わたしは、あなた〔ヤコブ(筆者挿入)〕の父アブラハムの神、イサクの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、あなた〔ヤコブ(筆者挿入)〕が横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」2017)とあります。

 話を初めに戻します。
ヤコブは、自分の財産をすべてまとめ、ラバンのもとを去って、父イサクの住む地へと出発しました。
これを知ったラバンの心情はどのようであったでしょうか?
恐らく怒りに燃えたことでしょう。創世記3122,23には次のように記されています。
“22
 ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたのは、三日目のことであった。
23
 ラバンは一族の者を引き連れ、七日の道のりを後から追いかけ、ギルアドの山地で追いついた。(聖書協会共同訳)とありますから。
 おそらくラバンは力ずくで、ヤコブとそれに伴うすべてものを連れ戻そうとしたのではないかと思います。

 しかし、まことの神であるヤハウェ(主)は、最善の時に、行動を起こします。
創世記3122-24には次のように記されています。
“22
ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたのは、三日目のことであった。
23
 ラバンは一族の者を引き連れ、七日の道のりを後から追いかけ、ギルアドの山地で追いついた。
24
 すると神はその夜、夢の中でアラム人ラバンに現れて言われた。
「ヤコブとは、事の良し悪しを論じないように注意しなさい。」(聖書協会共同訳)とあります。
 おそらくヤハウェ(主)は、ラバンに事を起こさせないようにするだけの方法を用いて、ラバンに臨んだのだろうと思います。

 その後のことを少し飛ばしますが、創世記3154,55には次のように記されています。
“54
ヤコブは山でいけにえを献げ、一族を食事に招いた。彼らは食事をして、山で一夜を明かした。55 翌朝早く、ラバンは孫と娘たちに口づけして、彼らを祝福した。それからラバンは去って、自分の所へ帰った。2017(新共同訳、聖書協会共同訳は、55節を、創世記321としています)}とあります。

 まことの神ヤハウェ(主)は、契約を守る神です。
今日の箇所は、ヤハウェ(主)がヤコブに働くと共に、ヤハウェ(主)を自分の神としていないラバンにも働いて、ヤハウェ(主)は、ご自身のご計画を着々と進めていかれることを教えてくださっておられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。
まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。茨の代わりに、もみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」(イザヤ559-132017)と仰せられました。
 あなたの御支配、あなたのご計画の内を、安らぎをもって歩ませて頂けますことを感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月 6日 (日)

御父の愛、キリストの愛を知ってはいても、その愛を少ししか知らない私

 ヨハネ10:14.15を2017は次のように訳しています。
“14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。”と記されています。

 15節aには、“ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。”とあります。
「知る」と訳されている語のギリシア語原語は「ギノースコー」で、know(知る)の意で、その他understand(理解する、分かる、把握する )、・・・・等々の意があります。

 さて、御子イエス様は、御父をどの程度に知っていたのでしょうか?
御父は、主キリスト・イエス様の空中再臨の時や地上再臨の時を知らなかったようです。
マタイ24:36には、「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(2017)というイエス様の御言葉があります。
また、ヨハネ14:28には、「・・・父はわたしよりも偉大な方だ・・」(2017)という御子イエス様の御言葉が記されています。

 わたし自身が、三一の主なる神様について、わずかばかりしか知らないのに、主なる神様のことをこのように記しているのですから、神様に笑われてしまうかもしれませんが、あえて述べていきます。

 簡略にまとめると、父と御子と聖霊は、聖なる神であり、愛において、義において、信頼において同質です。しかし、位格において異なり、知識においては差異があり、偉大さにおいても差異のあることが分かります。また計画や様々な事柄に対する決定権も異なります。

 14節を岩波訳は、“私が良い牧者であって、私は自分の〔羊たち〕を知っており、私の〔羊たち〕も私を知ってい る。”と訳しています。
(岩波訳の〔 〕内の語は、岩波訳の訳者の挿入語です。)
「私は自分の」と訳されている中の「自分の」と訳されている語のギリシア語原語は「エモス」で、その意味は、my, mine、の意です。
2017は、「わたしはわたしのものを知っており」と訳しています。
続く後半部分を、2017は、「わたしのものは、わたしを知っています。」と訳しています。
この箇所を直訳すると、この箇所の「知る」という単語は受動態ですから、「私は(14節の冒頭の箇所)、・・・・私の者たち(原語は複数形)に知られている」ということになるのではないかと思います。日本語的には、「わたしのものは、わたしを知っています。」と訳すのでしょう。私の持っている諸々の日本語訳聖書は、そのようなスタイルで訳出しています。

 14,15節から、“・・・わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。・・・”(2017)という箇所だけを取り出すと、私たちキリスト者は、相当に主イエス様のことを知っているように勘違いしてしましますが、14節冒頭の「わたしは良い牧者です。」という文と15節の最後の「わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」という文に焦点を当てて考えてみると、羊は、自分の飼い主を知っているし、羊は、自分の飼い主が餌や水を与えてくれることを知っています。しかし、飼い主が何を考えているのかについては、多少のことは分かるのかも知れませんが、深くは分かりません。おそらくその程度に私は、イエス様のことを知っているのでしょう。イエス様は、私を愛してくださっておられること、私を霊的に肉体的に養ってくださっておられること、私を守り導いてくださっておられること、etc.です。

 使徒パウロは、次のように祈っています。
“14 こういうわけで、私は膝をかがめて、15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊〔直訳は「ご自身の霊」(筆者挿入)〕により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、21 教会において〔原語は「エン」でinの意(筆者挿入)〕、またキリスト・イエスにあって〔原語は「エン」でinの意(筆者挿入)〕、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。”(エペソ3章・2017)と記されています。

 私たちキリスト者は、神様が愛のお方であることを知っていますが、その愛がいかばかりのものであるのかをあまり知らないのです。
神の愛を知れば知るほど、神の豊かさを経験していくことができるということを上記の祈りの中の文章で知ることができます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
日々、あなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを、少しずつではあっても理解し続けていくことができますように。
そのようにして、神の満ちあふれる豊かさを知っていくことが出来ますように。
良きものを常に与えようとしてくださっておられるあなたの御名に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月 5日 (土)

義なる人と不義なる人の結果/愛に生きる

 箴言107-122017訳は次のように記しています。
“7
正しい人の呼び名は祝福となり、悪しき者たちの名は朽ち果てる。
8
心に知恵のある者は命令を受け入れ、無駄口をたたく愚か者は滅びに落ちる。
9
誠実に歩む者の歩みは安全だが、自分の道を曲げる者は思い知らされる。
10
目で合図する者は人に痛みをもたらし、無駄口をたたく愚か者は滅びに落ちる。
11
正しい人の口はいのちの泉。悪しき者の口は不法を隠す。
12
憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう。とあります。

 「正しい人」(7,11)とは、主を畏れ敬い、信に信頼し、主に従う人のことです。
新約的に言うと、主を自分の救い主、そして「主」と信じた人のことです。
主キリスト・イエス様を信じた人を、父なる神様は、義(正しい)としてくださいます(ローマ324,26)。
これが基本です。
 
ローマ324,26には次のように記されています。
“24
キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価(あたい)なしに義とされるのです。26 ・・・・、イエスの真実に基づく者〔欄外に別訳として、「イエスを信じる者」(筆者挿入)〕を義とする・・。(聖書協会共同訳抜粋)とあります。
 
主イエス様抜きで、すなわち主イエス様に信頼することなく、自分の肉の力で自分が善を行なったとしても、それは神様の御目からご覧になると善ではありません。栄光を主なる神様に帰していないからです。
主を脇において、自分は正しいことができると考え行動した人がいたとします。
その人の生存に欠かせない空気や水、食物、その他の必需品の原料は、神様が創造してくださった原子の組み合わせで出来ているのです。
人自体が神様の創造の結果です。
すべての栄光を主なる神様に帰さない善はないのです。

 7節を、
2017
は、正しい人の呼び名は祝福となり、悪しき者たちの名は朽ち果てる。と訳し、
フランシスコ会訳は、正しい者の思い出は祝福されるが、悪い者の名は朽ち果てる。と訳し、
聖書協会共同訳は、正しき者を覚える者は祝福に、悪しき者の名は滅びに至る。と訳し、
口語訳は、正しい者の名はほめられ、悪しき者の名は朽ちる。と訳しています。
 「呼び名」(2017)、「思い出」(フランシスコ会訳)、「覚える」(聖書協会共同訳)、「名」(口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ゼケル」は、“Memento”の意で、第一義的には、記憶、思い出の品、形見などの意があります。その他、(人や出来事を)記念すること、思い出、・・・等々の意があります。

 11節にも「正しい人」の語が出て来ます。
11
節を、
2017
は、正しい人の口はいのちの泉。悪しき者の口は不法を隠す。と訳し、
フランシスコ会訳は、正しい者の口は命の泉。しかし、悪い者の口には暴虐が潜んでいる。
口語訳は、正しい者の口は命の泉である、悪しき者の口は暴虐を隠す〔暴虐を隠し持つ(聖書協会共同訳)〕。と訳しています。

 「正しい者の口は命の泉である」という聖句を読むと、イエス様を思い浮かべます。地上生涯において全く罪を犯さず正しく歩んだ人は、神が人となられた主イエス・キリスト様お一人です(1ペテロ222、ヘブル415、ローマ310512)。
さて、この箇所を新共同訳は「神に従う人の口は命の源」と訳しています。いずれにしても主の御言葉はいのちをもたらすのです。とはいえ、イエス様を主と告白することが出来るのは聖霊によります(1コリント123)し、聖書の御言葉を正しく理解するためには真理の霊である聖霊の助けが必要不可欠です(ヨハネ14171コリント213-15)。
 後半部分から、暴虐を隠し持っている人、暴虐を隠す人について、そのような人は、悪しき人である、と明言されています。更に暴虐の実行に至った人は、明確に悪しき人です。

 8,9節の前半部分を、
2017
は、“8 心に知恵のある者は命令〔戒め(口語訳)〕を受け入れ、9 誠実に歩む者の歩みは安全だ・・、と訳し、
聖書協会共同訳は、“8心に知恵のある者は命令を受け入れ、9 誠実に歩む人は安らかに歩み(む)と訳しています。

 心に霊的な知恵のある人は、神様の戒め(教え)を受け入れ、神様が命じられたように誠実に歩もうとします。そのような人は、神の裁きの前において安全です。そのように行えるのは、その人が救い主であり、主であるキリスト・イエス様を受け入れ、主ご自身がその人の内に住んでくださっておられるからです。

 8,9節後半と10節を、
2017
は、“8無駄口をたたく愚か者は滅びに落ちる。9自分の道を曲げる者は思い知らされる。10目で合図する者は人に痛みをもたらし、無駄口をたたく愚か者は滅びに落ちる。と訳しています。

 主の仰せに従わない人の中には、一時期地上では良いように見える人もいますが、主の審判の時には災いを受けます。
死んだ後の陰府の世界と、最後の審判での火の池です(黙示録2011-15)。
エゼキエル書から陰府の世界を少しのぞいてみます。
 エゼキエル32章には次のように訳されています。
“17
第十二年のその月の十五日に、主の言葉がわたし〔エゼキエル(筆者挿入)〕に臨んだ。
18
「人の子よ〔エゼキエルよ(筆者挿入)〕、あなたと諸国の娘たちは、エジプトとその貴族たちのために泣き悲しめ。わたしは彼らを地の低い所に下らせる。穴に下って行く者と共に。
19
お前はだれよりも美しいと思っていたのか。下って行き、割礼のない者と共に横たわれ。
20
彼らは剣で殺された者の間に倒れる。エジプトは剣に渡された。エジプトとその軍勢はすべて運び去られた。
21
陰府の中から、最も強い勇士たちが、エジプトとその同盟者たちに語る。割礼のない者、剣で殺された者たちは、下ってきてそこに横たわる、と。
22
そこには、アシュルとその仲間がすべており、彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者である。
23
アッシリアの墓は穴の最も深い所にあり、その周りには仲間たちの墓がある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者。かつて、生ける者の地で恐れられていた。
24
そこには、エラムとそのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者、割礼のない者で、地の最も低い所に下って行く。生ける者の地で恐れられていたが、穴に下る者と共に恥を負う。
25
殺された者たちの間に、床が設けられた。エラムとそのすべての軍勢のために。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていたが、穴に下る者と共に恥を負い、殺された者の間に置かれる。
26
そこには、メシェクとトバルとそのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周囲にある。皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていた。
27
彼らは、遠い昔に倒れた勇士たちと共に横たわることはない。この人々は、武器をもって陰府に下り、剣を頭の下に、盾を骨の上に置いていた。これらの勇士は、生ける者の地で恐れられていた。
28
お前は割礼のない者の間に剣で殺された者と共に打ち砕かれて横たわる。
29
そこには、エドムがその王たちとすべての君侯たちと共にいる。彼らは力をもっていたが、剣で殺された者と共に置かれ、割礼のない者、穴に下る者と共に横たわる。
30
そこには、北のすべての君主たち、シドンのすべての人々がいる。彼らは殺された者と共に下る。彼らはその力のゆえに恐れられていたが辱められ、割礼のない者、剣で殺された者と共に横たわる。彼らは、穴に下る者と共に恥を負う。(新共同訳)とあります。

 次にイエス様の例話を取り上げます。ルカ16章には次のように記されています。
“23
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
24
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
25
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
26
そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
27
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
28
わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
30
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
31
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者〔「聖書」のこと(筆者挿入)〕に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(新共同訳)とあります。

 12節には、“憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう。2017)とあります。

 後半部分には、「愛はすべての背き〔「とが」(口語訳)〕をおおう」とあります。
旧約の時代、まことの神様は、罪を告白し、悔い改め、罪のためのいけにえをささげれば、その罪を赦し、覆ってくださいました。人類の始祖アダムが堕罪した後も、主なる神様は、動物をその代わりとして(罪のためのいけにえの血を流して)、獣の皮の衣で覆ってくださいました(創世記321)。ダビデは、「幸いなことよ。その背きを赦され、罪をおおわれた人は。」(詩篇321・新改訳2017)と述べています。

 新約の時代は、イエス様が罪の為のささげものとなって下さいました。
如何なる罪でもイエス様を信じれば赦され、「義」とされるのです。「義」は、覆うこととは異なります。義であれば、そこに罪は無いのです。キリストは、私たちのために、義と聖と贖いになられたのです(1コリント130)。

 パウロは、この箇所を引用して、「愛はすべてを覆い」(1コリント137・新改訳第三版欄外注)と記し、ペテロも、「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。」(1ペテロ48・口語訳)と述べました。
リビングバイブルは1ペテロ48を「何よりも大切なことは、どんな時にも、深く愛し合うことです。愛は、多くの欠点を補うからです。」と訳しています。
「罪」の原語は(ギ)「ハマルティア」で、的外れの意があります。罪とは神様のみこころから外れていることです。その観点に立ってリビングバイブル訳のこの箇所を読めば、リビングバイブルの「欠点」という訳も良く理解できます。私たちの行いのすべてが、自然に「義」なる行ないとしてあらわれるのはイエス様との結婚式のとき以降です(黙示録198)。

 今の時代は、お互いに足りないところをカバーし合うのです。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ1334)と語られました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを、そして主イエス様を、心から愛し、そしてその故に喜びをもって従う者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月 4日 (金)

創造論と進化論

 詩篇192を、
新共同訳は、“天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。”と訳しています。
「物語り」と訳されている語のヘブライ語原語は「サーファル」で、記録する、の意ですが、話す、語る、・・等の意にも使われます。
2017
訳は、「語り告げ」と訳し、1節に、“天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”と訳しています。
(新共同訳は、ヘブライ語聖書の節に基づいて2節とし、新改訳は、ヘブライ語聖書の1節を表題として扱い、2節を1節としています。)
「天」と訳されている語のヘブライ語原語は「シャーマイム」で複数形です。口語訳は「もろもろの天」と訳し、1節を、もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。と訳しています。

 パウロは、ローマ120aにおいて、世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。(新共同訳)と述べています。
リビングバイブルは、この箇所を、世界が創造されてからこのかた、人々は、天地や、神がお造りになったすべてのものを見て、神の存在とその偉大な永遠の力をはっきり知っていました。と訳しています。

 パウロの時代の人たち、私たちから見たら昔の人たちは、神様が天地万物を創造した、と考えていたのでしょう。

 現代人はそのように考えない人が多いのではないでしょうか。

 詩篇196,7には、
“6
太陽は、花婿が天蓋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように、
7
天の果てを出で立ち、天の果てを目指して行く。
その熱から隠れうるものはない。(新共同訳)と記されています。
(新改訳や口語訳は5,6節です)

 聖書を信じない人は、この様な記述を見つけると、或いは、聞くと、聖書は天動説を述べているから信じることは出来ない、と言うかもしれません。

 しかし、地動説を信じている私たち現代人も、日常会話においては、太陽は東から上って西に沈んでいく、と表現する人が多いのではないかと思います。
人間は、元来、自己中心的ですから、先ずは自分を主体にして物事を考えたり、語ったりするのではないかと思います。

 今の地球は、約24時間をかけて一回自転をする、とほとんどの人が思っているでしょう。
太陽が東に見えたとき、太陽との位置関係の中で、今は丁度、太陽が東に見える位置まで自転してきた、とは言わないでしょう。

 この詩は、ダビデの詩ですが、もしダビデが現代人で、地動説を知っていたとしても、聖書に記してあるように、
“6
太陽は、花婿が天蓋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように、
7
天の果てを出で立ち、天の果てを目指して行く。
その熱から隠れうるものはない。(新共同訳)と述べたのではないかと想像します。

 専門家でなくても、
地球は自転しつつ太陽の周りを公転し、太陽は天の川銀河の中心を回っており、天の川銀河は宇宙空間を600km/秒の速度で疾走している、ということを知識として知っている人もいるでしょう。
 一体、人は、宇宙の中でどのように動いているのでしょうか。人がじっとしていても複雑でかつ極めて速い速度で、宇宙を移動しているのですが、その人が更に複雑な動きの運動をしたらその動きの奇跡はどのようになるのでしょう。
私の頭では考えられません。

 宇宙の始まりを証明できる人はいません。
但し、自然に発生した、と考える人は多くいます。しかし、それが科学的か、というと証明できないのですから科学的ではなく、宇宙は自然に発生したと信じているのです。
それは、創造主を否定しているからです。

 それではキリスト者はどうでしょう。
キリスト者は、聖書に、神が天地を創造し、その中にあるすべてのものを神が造られた、と聖書に書いてあるので、それを信じているのです。
私個人について言えば、神に信じさせてもらった、ということになりますが。

 万物は、神による創造なのか、自然発生なのか、については、神による創造を信じていない人も死んだ後に、理解することになるのではないかと、私は思います。
私がどうしてそのように思うのかというと、私が聖書を信じているからです。
 フィリピ(ピリピ)2章には、
“9
・・、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて〔告白して(聖書協会共同訳)〕、父である神をたたえるのです。(新共同訳)と記されています。
地下に行かされてから、「イエス・キリストは主である」と告白しても、その後待っているところは恐ろしいところです(黙示録2011-15参照)。

 どうして神による創造ということを信じることができないのでしょうか?
ローマ128aには、・・、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。2017)と記されています。
また、1コリント120,21には、“20どこに知恵ある人がいるというのですか。学者がどこにいるのですか。どこにこの代の論客がいるというのですか。神はこの世の知恵を愚かなものとされたではありませんか。21事実、この世は神の知恵に囲まれているのに、自らの知恵によって神を知るには至りませんでした。そこで、神は、宣教という愚かなことによって信じる人々を救うほうがよいとされました。(フランシスコ会訳)と記されています。

 どうして神による創造ということを信じることができないのでしょうか?
と書きましたが、書いている本人は、「創造論という考えからもあるのではないの」?と言われ、そんな馬鹿な、と思い、必死に勉強したのです。
その結果、創造論も進化論も、どちらを信じるのか、というところに落ち着くのだと私には思えたのです。私は、聖書の預言についても探求していました。その分野から、聖書はすごい書物だと考えるようになったのです。しかし、ある時、神様が、神による創造について信じることが出来るように諭して下さり、その後に、イエス・キリストを信じれば救われるのだ、ということを語ってくださったのです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ77,82017)とイエス様は語られましたが、その御言葉が事実であるということを体験したのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日は、心に平安がなかった頃のことを思い出しました。
あなたの恵みによって今の安らぎがあることを覚え感謝します。
主イエス・キリスト恵み、神の愛、聖霊の交わりを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月 3日 (木)

約束を守られるヤハウェ(主)

 ヤコブの二人の妻は、ラバンの娘でしたが、ラバンには息子たちもいました。
ヤコブがラバンのもとに逃れて来てから20年が経った頃のことです(創世記3138,41)。
ラバンとラバンの息子たちは、ヤコブに対する態度を、以前に比して変化させていました。
 創世記311,2には次のように記されています。
“1
ところで、ヤコブはラバンの息子たちが、
「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物で、このすべての富をものにしたのだ」〔「ヤコブは父のものをすべて奪い取ってしまった。彼があのような財をなしたのは、すべて父のものによってなのだ。」(聖書協会共同訳)〕と言っているのを聞いた。
2
ヤコブがラバンの態度を見ると、はたして、それは彼に対して以前のようではなかった。2017)とあります。

 1,2節のような言動をヤコブがヤハウェ(主)に申し上げたかどうかは分かりませんが、ヤハウェ(主)はヤコブに次のように語りました。
「あなたが生まれた、あなたの父たちの国〔土地(新共同訳)、ヘブライ語原語は「エレツ」で、地、国とも訳すことあり(筆者挿入)〕に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」(創世記3132017)と記されています。

 20年前に、ヤコブが親元を離れ、ラバンのもとへと行く途中で、ヤハウェ(主)はヤコブに次のような約束をしました。創世記2813-15には次のように記されています。
“13
そして、見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がその上に立って、こう言われた。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしは、あなたが横たわっているこの地〔この地の元の名前は「ルズ」、ヤコブはその地の名前を「ベテル」と変えた{創世記2818}。「ベテル」とは「神の家」の意(筆者挿入)〕を、あなたとあなたの子孫に与える。
14
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るわたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」”(2017)とあります。

 ヤハウェ(主)は約束を守られる神です。
主イエス様は、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28202017)と言われました。
私たちキリスト者に対する主キリスト・イエス様の存在のありようは、物質界の現象では考えられないようなものです。
主イエス様は、天の御父の右の座におられます(マルコ1619、ローマ834、ヘブル13)。
また、主イエス様は、いのちを与える霊となられ、私たちの内に住んでおられます。
1
コリント1545には、・・・、最後のアダム〔キリスト・イエスのこと(筆者挿入)〕は命を与える霊となったのです。(新共同訳)とあり、コロサイ127には、・・・あなたがたの内におられるキリスト・・(新共同訳)と記されています。

 イエス様がいつも共にいてくださるからといって、キリスト者は、苦難を受けないですむというわけではありません。
主イエス様は、十字架にかかられる前に次のように語られました。
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16332017)と。

 ヤコブの場合も同じでした。
ヤハウェ(主)はヤコブとともにいたのです。
しかし、ヤコブも大変でした。ヤコブはラバンに次のように語っています。
38 私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。
39
野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。
40
私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。
41
私はこの二十年間、あなたの家で過ごし、十四年間はあなたの二人の娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。しかも、あなたは何度も私の報酬を変えました。
42
もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方〔畏れる方(聖書協会共同訳)〕が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」(創世記31章・2017)と記されています。

 神様が苦難を与えてくださる理由を、パウロはローマ53-5に記していますが、より良き理解のためにローマ51-5を下記します。
“1
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので〔義とされたのだから(口語訳、新共同訳)〕、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2
このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
3
それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。
それは、苦難が忍耐を生み出し、
4
忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。2017)とあります。

 余談になりますが、神様が、自分を愛してくださっておられる、と感じられるのは、聖霊によるということが5節より分かります。
聖霊を悲しませることなく(エペソ430)、聖霊に満たされること(エペソ518)を常に求めて歩む動機付けにもなります。
また、ローマ839(抜粋)には、私たちの主キリスト・イエスの内にある神の愛から私たちを引き離すことは出来ない、とも記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは約束を守られるお方ですから御名を崇めて感謝します。
苦難の中に置かれているとき、多くの人は、「どうして?」といいますが、キリスト者が苦難の中に置かれているとき、そのようなときにも、あなたは共にいてくださり、あなたは、苦難を用いて、私たちに、忍耐、練られた品性、希望を与えてくださいますから感謝します。
いつも主イエス様に目を留めて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

«敵対あるいは抑圧してくる人に対する対処2

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